谷川岳 一ノ倉沢 衝立岩正面壁雲稜第一

1999年10月24日(日)
向畑・倉田(記)

朝寝坊の向畑さんを何とか起こし、一番に取り付こうとしたが、ヒョングリの懸垂手前で足の遅い私のせいで、先行パーティーに抜かれ、(ヒョングリでは、暗くてクライムダウンに自信がない私が懸垂してと頼んだこともありどんどん遅くなり)、先に雲一に取り付かれてしまう。

しばらく中央稜の取り付き付近で待って、先行トップが2ピッチ目ビレーポイントにたどり着いたところで、アンゼイレンテラスに向かう。

雲一の取付き7:00。

奇数ピッチを倉田が担当。

1ピッチ目倉田リード、岩が堅くしかも良く乾いていて気持ち良く登れる。

ビレーポイントで、先行パーティーに追いつき、先行のトップがハングを越えるまで待つ。

先行のビレーヤーが以前登った(9/26)ダイレクトカンテでの先行パーティの一人で、思わず3人で話が弾んでしまう。

次の2ピッチ目は向畑さんリード。

最初フリーで、途中から人工。

3ピッチ目倉田リード。

フリーの混じる人工。

岩が脆いと言われる衝立だが良く登られているルートのせいか意外とそれほどでもなくなっているみたい。

でもビレー中、先行の方が足を置いた私の目の前の岩が(浮き石に見えなかったが)あっという間に落ちた。

直径50センチぐらい。

びっくり。

登ってくる向畑さんは大丈夫だったが、私の左足甲にバウンドして墜落。

ここから先、巻きこむたび痛む。

次、4ピッチ目向畑さんリード。

最後の出口のフリーが難しく感じる。

5ピッチ目倉田リード。

高度感がどんどん増してくるが、天気が良く風も微風で登っていると気持ちいい。

振り返ってみると紅葉がなんとも言えずきれい。

ボサテラスは広くて草が生い茂り大変居心地がいい。

6ピッチ目向畑さんリード。

凹角は草が生い茂っていて洞穴ハング下まで、草漕ぎ。

7ピッチ目倉田リード。

洞穴ハング越える所にぐらぐらのアングルピトンがあるが、それにアブミを掛けずにいくほうがスムーズに越えられた。

雲一の最後のトリ。

最終ピッチはコンテで、出だしのチムニーのところだけ慎重に登って、あとは草付となり、すたすた行ける。

終了点には、14:40につく。

北稜を下降するパーティがかなりいたので、中央稜を下降。

雲一の先行パーティも中央稜下降。

出合には19:00着。

運の強い私はいつも衝立では天気に恵まれ、今回も本当に気持ちのいい登攀が出来ました。

なんといってもクライミング日和なのに衝立にはたった2パーティだけで、人が全くいなかったのが良かった。

(中央稜はいっぱいだった。)

ちなみに私の反省としては、歩くのが遅かったり、暗い中でのクライムダウンに自信が持てなかったりして、どんどん行ってしまう向畑さんにいつも遅れをとってしまう点。

もっと体力つけなきゃと思いました。

 

 

南ア 仙丈岳

1999年10月23日~24日
関太郎、畠中進二(記)

「ダメ男2人旅」

稜線をひたすら歩きたいと考えていた関さんと畠中の2人で南アルプスに行ってきた。

予定としては、北沢峠~仙丈岳~仙塩尾根~三峰岳~間の岳~北岳~広河原である。

テーマは「紅葉とおでんと酒」である。

いかにしておいしく酒を飲むかがこの山行の全てである。

果たしてどうなるか。

10月23日

快晴

深夜4時に八王子を出発し、空が白み始めた頃甲府に着いた。

コンビニに寄ろうと車を出ると、目の前に北岳が。

かっこいい。

あれ、でもちょっと待てよ。

何か白いな。

何だあれは。

雪だ。

もう雪がある。

「関さーん。雪がありますよ。やばいですよ。」

「うろたえるな畠中。とりあえず、手が取れちゃうといけないから軍手買おう。」

というわけで、慌てて軍手を買った。

それにしても南アルプスは山深い。

麓の町から広河原まで30km。

さらに北沢峠までは10kmある。

昔、南アルプスを目指した登山者はきっとロマンチストであったことだろう。

いつの日か天国で一緒にお酒でも飲みたいものである。

結局広河原には7時すぎに着き、9時の一番バスまで仮眠した。

そして、1時間ぐらい経って、そろそろ起きようかなと思っていると、「フフッ。フフフ。」という笑い声が聞こえた。

関さんがもう起きているのかなと思い見てみると、ニヤニヤ顔でまだ寝ていた。

寝言だった様だ。

恐かった。

そういう私も、小林幸子のコンサートに行く夢を見た。

さて、9時発のバスに揺られ9時30分に北沢峠着。

10時に歩き出す。

天気は快晴で外気は良く冷えている。

何日前に降ったのかは分からないが、雪が所々にあり、日影ではガリガリに凍っている。

12時に小仙丈岳着。

そこは素晴らしい展望で南ア、中アは勿論のこと北アまで見えた。

そして、驚いたことに南アルプスの2500mから上は結構雪があった。

これから行く仙塩尾根は、三峰岳直下が真っ白でガチガチに凍っているようだった。

コンビニで慌てて軍手を買った2人は、雪があることなど思ってもみなかったので軽装で来ていた。

関さんなんてボロボロの運動靴である。

「三峰岳への登りにはきっと関さんの靴はもたない。一気に谷に滑り落ちるだろう。これは無理だ。せめて関さんにあと2つぐらい命があれば…」

と私は一人で悔しがった。

というわけで計画を断念せざるを得なかった2人は完全に気が抜けてしまい、銀マットを広げねっころがり、2人のこれからについて話し合った。

そして、このまま仙丈をピストンし北沢峠に泊って、明日は甲斐駒を登ろうということに決まった。

それならのんびりと休憩してから出発しようということになり、お昼ご飯を食べようとザックをいじっていると、畠中のザックから玉手箱が出てきた。

その玉手箱を開けてみると、なんとビールが入っていた。

典型的日本人である2人は気付くと乾杯をしていた。

習慣とは恐ろしい。

後は皆様の御想像どおりに宴へ。

日本酒にも手を付け、いつのまにかBAR小仙丈へと早変わり。

前日からの疲れからかすぐに酔いつぶれた関さんを起こそうと、股間に石をのせたが全く起きる気配がなかったので、そのまま石を積んでケルンを作ったりしていたら夜も更けていった。

10月24日

快晴

仙丈岳をピストンし、一目散に下山し北沢峠発の一番バスに乗って早々と帰った。

結局何だったのだろうという思いはあったが、目的は達成できたので良しとした。

また行きましょうね、関さん。

 

 

奥鐘山西壁 中央ルンゼ

1999年10月9日~11日
荒井、小谷、関(記)

三連休は黒部の沢を考えていたのだが、荒井さんと小谷さんが奥鐘に行くというのでメンバーに加えて頂いた。

学生時代、水平道から見た奥鐘は登攀の対象として見るには余りにも恐ろしかったが密かに「登れたら・・・」と思っていたので、こうして訪れる機会を得て大変たのしみだった。

10月8日(金)

PM11:20 小谷宅発、AM5:30宇奈月着

10月9日(土)

8:30発のトロッコ電車で欅平へ。

この日はアプローチのみ。

欅平から40分の谷歩きで奥鐘基部に着く。

足回りは渓流シューズが断然いい。

こんなに近いとは・・・もっと豪華な食糧計画にすれば良かった。

水量が多いときはアプローチも困難を極めると聞くので今回は条件が良かったのだろう。

まだ昼前なので昼寝を決め込む。

荒井さんはよほど疲れがたまっているようで「山だと子供に起こされないから熟睡できんだよ。」といってそそくさと寝込んでいる。

行きの車の中で、家庭と山の両立の困難さについて2人から聞かされたが、寝ている荒井さんを見ているとそれを実感する。

中嶋君、がんばってね。

他パーティーは続々と壁に取付こうとしている。

「どーするんだろうねぇ」

と話しているとほとんどのパーティーは下部数ピッチで下降してきた。

壁でビバークしている人達もいたが、この日は冷えたのでさぞかし辛かったと思う。

10月10日(日)

今日は人気ルートの中央ルンゼを予定していたので3:00起床。

食事をしてさて出発と思いきやまだ外は真っ暗。

テントの中でしばしポケーッとしてから出発。

取付きで準備していると3人組のパーティーもやってきた。

彼らはトロッコ電車で相席になった人達だ

(?)「おたくらどこいくの?」

(秀)「欅平です」

(?)「ちがうちがう奥鐘でしょ」

(秀)「あっ中央ルンゼでず。他にも結構(クライマーが)いるから混むかもしれませんねぇ」

(?)「まったく混んでもいいけど早けりゃいいんだけどねぇー」

(秀)「はぁ(この人達早いんだろなー)」

てな会話があったので先行してもらう。

我々は3人パーティーだったので荒井さんに終始トップをやってもらう。

6:00スタート。

1P目 III級  50m 草付

2P目 I~II級 50m 草付

3P目 III~IV級 50m 草付、スラブ

ここから岩登りの始まり。

先行は思ったより早くなくすぐに追いついてしまう。

先に行くことを進められたが、別に急ぐつもりもなかったので辞退する。

4P目 III~IV級 50m 草付、スラブ

5P目 III~IV級 30m 草付、スラブ

ハング帯の弱点となるくさびの切れ目の下まで。

ここらへんから後続が続々と登ってくるのが見え始めるが、先は相変わらず詰まっている。

6P目 V級 40m ここから本格的な岩登りの始まり。

7P目 IV+級 40m スラブ

傾斜の割にプロテクションが少ない。

先行のセカンドはテンションをかけて苦労している。

ここでついに後続も追いついてきた。

8P目 III級 A1 40m 先行が抜けるのに2時間待ち。

先行のセカンドはどう見てもアブミに乗るのは初めてとしか思えない。

もうむちゃくちゃな操作をしている。

我々はあきらめ顔で座って見物。

後続の1人が見かねて一挙手一投足を指示し始めた。

我々も一緒になって指示を送る。

「今乗っている右足に立ちこんでください・・・そう、それで体を上に引き付けてフィフィをかけるんです。そうそう、それで少し腕を休めて・・・今度は今左手に持っているアブミを・・・」

といった具合に。

ついにハングを抜けた時は、我々はもう半分ヤケクソで「ヤッタァー」と叫んでしまった。

実際は荒井さん曰く「快適なA1だったよ」

9P目 IV級 A0 40m 3~4メートルの振り子トラバース。

よっぽど先行を抜こうと思ったが、セカンドがビレイ点にたどり着くとトップがすぐに登り始めてしまう。

先行のセカンドの人はよほど疲れたのかテンションかけまくり。

もう登っている時間よりビレイ点にいる時間の方が長い。

ふとさっきのビレイ点で後続の人のグローブに「ACC-J MOTOZU」

と書いてあったのを思い出し「小谷さん、もしかして後続の人あの本図さんかもしれないっすよ。」

「えっ、ほんと!(剣沢の)大滝登った人だよね!?」

私は軽く振ったつもりだったのだが目つきが尋常じゃない。

「(あー、この人マジだよ)」

その後ビレイ点で改めて本図さんに挨拶すると、本郷さんのことを知っていてよろしくとのことでした。

10P目 IV級 40m スラブ プロテクション1個でのトラバースでちょっと怖い。

11P目 IV級 40m スラブ

12P目 IV+級 A1

ここもA1のピッチがあるのでいやな予感がしていたのだが、ビレイ点にたどり着くと目を覆いたくなるような光景が待っていた。

またもやセカンドがテンション状態で動かない。

だんだん明るいうちに下りれるかが不安になってきた。

後続の本図さん達は「もーどーでもよくなっちまった」と言って下降の準備を始めている。

その後にも数パーティーがつまっていたが皆下降の準備を始めていた。

我々はここで1時間余り待って登り、残り1ピッチを残して下降することにした。

時間は3時20分でなんと9時間20分を要した事になる。

驚いたことに先行はまだロープをのばし、この日中央ルンゼに取付いた唯一の完登者となった。

我々は怒りを通り越して、あれだけ力量のないパーティーが奥鐘を登ったという事実にただ驚くばかりであった。

10回の懸垂で暗くなるギリギリの5:45に黒部川に降り立つ。

くさびの切れ目から下は一致和合のルートを下降するのだが、ビレイ点は草付スラブの中で非常にわかりづらい。

壁に向かって気持ち左方向に下る。

先に下降しているパーティーのおかげで助かった。

この日の夜は小谷さんに連れられて本図さんのテントにご挨拶。

剣沢大滝の貴重な話を聞くことができた。

ありがとうございました。

10月11日(月)

欅平へ下山。

この時期の連休は昼過ぎになると座席の確保が難しいという話を帰りの車中で耳にした。

欅平では2日前に中央ルンゼに取付いて頂上まで抜けて祖母谷へ下降したというパーティーがいた。

今は頂上まで抜けるルートは藪の密生がひどく、壁の終了点から頂上をぬけて祖母谷へ下るのに13時間を要したとのことです。

すっきりとした登攀は望めませんでしたが、良きメンバーと好天の3日間があればそれだけでも満足でした。

今度は正面壁から頂上へという3人の思惑は当然一致していたのでした。

 

 

韓国 インスボン

1999年10月7日(木)~10日(日)
瀧島夫妻、本郷、高津、大滝、森広、三好、白沢、森田、中嶋(記)

これだけは覚えよう「カムサ・ハムニダ」(ありがとう)

白雲山荘の皆さんのおかげで、短い期間のわりには非常に充実したツアーとなった。

学生の頃は海外旅行のガイドブックは「発見」の喜びを無くしてしまうから邪道だと思っていた。

でもいざ就職してみて、かつてのような時間をまったく気にしなくてよい旅行が出来なくなると、効率よく「発見」するために事前の勉強が重要だと思うようになった。

今回の韓国行きが決まった直後に「地球の歩き方・韓国」

を購入し、基礎知識や言葉のページを中心にかなり丹念に読んでおいた。

ハングルは話に聞いていたとおりとてもシステマチックに出来ていて、アルファベットに相当する「記号」を覚えてしまえば近い発音は出来るようなる。

とりあえず発音出来るだけで意味はまったくわからないけど、それっぽく発音するのがとても面白い。

当然、町を歩くときなど何かにつけて役に立った。

歴史の章はあらためて読んでみるとかなり重い。

日本と比べるととても苦労の絶えない国だったのだなあとつくづく思った。

日本は何回も苦労の種を蒔いてきたわけで、申し訳なさでまともに旅行なんか出来ないのではないかという気すらしてきた。

実際はそのたぐいの難しいことを考える暇がないくらい、クライミングだけで充実した旅になったわけだけど。

10月7日(木)

<出国から山小屋まで>

飛行機が夕方の便だったので午前中仕事をしてからでも間に合いそうだったが、一応午前中も休みをとって朝たっぷり寝てから準備をして、万全の体勢で成田に向かった。

飛行機には何度乗っても嬉しくて興奮するが、エアポート成田に乗る時にすでに興奮している。

飛行機は整備不良なかんかで一度滑走路に出てからもう一度戻ったりして、予定より1時間ほど遅れて離陸、待ちに待った機内食は量が少なくてかつまずかった(ノースウェスト)。

キンポ空港では白雲山荘(世話になる山小屋)の李さんが迎えに来てくれていて、車に乗ってまっすぐトソンサ(登山口の町)に向かった。

はじめての国の夜は迫力が5割増しくらいになる。

キムチの香りのする車の外をひたすら眺めていると、不意に真っ暗な漢河が現れて、あんまり大きいから海かと思ってしまった。

なんと言っても怖いのは教会の赤い十字架。

数があまりに多くて町中がお墓のように見えてしまう。

マンションの窓がやたら大きくて、オープンだったのも印象的だ。

車は80km位平気で出していて、てっきり高速だと思っていたら一般道らしいことが後でわかった。

トソンサで満場一致で軽く食事を取ることに決まった。

おでんとカップラーメン、キムチをつまみに真露を飲んだ。

おかげでこのあと白雲山荘までの登りがそうとうきつくなった。

この時トソンサが特殊な宵っぱりのスポットかと思ったが、ソウルっこは概して宵っぱりみたいだ。

10月8日(金)

<1本目のクライミング>

すぐ上で寝ていた2人組が早くからクライミングの準備をしていたので、軽く目は覚めていたのだが誰も起きようとしない。

かなりのぐうたらパーティだ。

山荘の人に朝食の準備ができてるぞと言われてはじめて動き出した。

飯は6種類くらいのおかずに、豆入りのご飯、草のみそ汁。

野菜比率が高くて健康には良さそうだ。

キムチは結構辛めだがうまい。

腹一杯食べてからインスボンに向かった。

便所の裏の踏み後をたどっていって、少しクライムダウンするともうインスボンの基部に着く。

この日はオアシステラス(岩場の中程にある大きなテラス)をベースにいくつか楽しもうという計画で、テラスまでの2ピッチのスラヴはみんなで適当に登った。

その後グーパー等で苦労して決めたパーティ編成ごとにそれぞれのルートに向かう。

本郷・森田・中嶋パーティは弓形クラック、最初のピッチは本郷さんのリード。

正規ラインのスラヴから攻めるが、リードだとどうにも恐い一歩があり左のインスAに逃げてしまう。

でもすぐに正規のビレーポイントに合流。

中嶋はフォローだったから1ピッチ目上部のクラックも楽しめた。

なかなか快適。

2ピッチ目がこのルートのハイライト、かなりの長さにわたってクラックが続いてとてもかっこいい。

真中らへんに核心があって、右から岩がかぶさってきて恐いところをハンドジャム頼りに攀じ登る。

それを越えてもまだまだクラックが続いていて嬉しくなってしまうピッチだ。

3ピッチ目は出だしがノーピンでちょっと恐くて、それをクリアした後もさらにクラックの出口が大きく左に出ていくのでちょっと落ちられない。

抜けると耳岩と本峰との基部まですぐで、実質終了。

大滝・高津・三好パーティと合流してオアシステラスまで戻る。

テラスでは現地クライマーが太巻きとワカメスープとブドウを沢山くれた。

儒教の施しの教えなのだろうか?なんにしてもおいしくって、彼等とかたことでも話したのがとても嬉しかった。

森田さんはオアシステラスを勝手に友情テラスと名付けた。

中途半端に時間が残っていたので、4時までで登れるところまで行くということで再び同じパーティ編成でそれぞれ違うルートに出発。

前半戦で瀧島パーティが取り付いていたウジョンBを大急ぎで登る。

2ピッチ分つなげて登ってしまったが、本来の2ピッチ目に当たるクラックがなかなか快適でいい。

瀧島さんがリードしたということで、皆落ちられないとかなり張り切っていた。

<夕食後の登山>

小屋に戻って楽しい夕食(内容は朝とほとんど同じ)を済ました。

しかしこの日はこれで終わらず、酔った足で白雲台(1時間位登った所の頂上)に遠征した。

ソウルの夜景は想像以上にきれいで、寒い中30分程景色をみながら日韓関係や東海村の事故等について語り合った(本当だよ)。

小屋に戻ったら2階の福岡パーティもまじえて宴会がはじまっていて、けっこうくまで飲んでいた気がする。

弓形クラックを登っていたところをずっと見ていたということで、珍しくほめられたので嬉しかった。

10月9日(土)

<2本目のクライミング>

昨日同様、2階の人達の準備で目が覚めるが誰も起きようとしない。

午後は町に買い物に行くことになっていたので、あまりゆっくりもしてはいられない。

相変わらず困難なパーティ分けを済ましてそれぞれのルートを目差して出発。

中嶋・三好パーティはあこがれのシュイナードA。

土曜日とあって前日よりは大分人が多い。

一番乗りを目差してがんがん取り付きに向かったら、いつの間にか1ピッチ目をパスしてしまっていた。

おかげで後続に悪いけど終始トップにいることができた。

取り付きからは見上げたルートは空までずっと同じクラックが続いていて、まだ見ぬヨセミテ(アメリカの花崗岩の山)に思いを馳せた。

2ピッチ目は中嶋リード、クラック登りと言うよりジェードル登りで意外と難しかったりする。

3ピッチ目は三好さん、クラックはほとんどリードしたことがないということでえらく緊張してのぼっていた。

レイバック姿勢を基本にして登るきれいなコーナークラック。

4ピッチ目核心のピッチ、なんと言っても長い。

まずはちょっとしたハング越えから、情けないけどA0してしまった。

難しいと言うよりは怖い。

これをクリアするとずーっとクラック。

クラックはフレアーぎみのところが多くてジャミングを決めづらい。

またザックを背負っていたので非常に窮屈だった。

空荷がおすすめ。

三好さんは泣きそうになりながら頑張って登ってきた。

弓形クラックの核心よりも確かに難しい。

5ピッチ目、目の前のチムニーを登ると残置物のないきれいなスラヴが広がっている。

とても登れそうにないので右のクラックへトラバースして、これを登ってスラヴの中のビレーポイントに達した。

6ピッチ目は耳岩の医大ルートを登るつもりで目の前のボルトめがけて取り付くが、かなり傾斜のあるスラヴでまったく歯が立たない。

ふと左の方をみると本物の医大ルートを登っている現地クライマーがいたので、懸垂下降してからスラヴを左にトラヴァース、ちゃんとしたビレーポイントと登れそうなスラヴにペツルの支点が続いていた。

最終ピッチ、今度こそ医大ルートの正規ルート。

出だしのステップの下が切れ落ちていて、この一歩が結構恐い。

10ノーマル位のスラヴを快適に登り、支点が無くなってきた頃に傾斜も落ちてきてすぐに耳岩頂上につく。

瑞牆の十一面の頂上に似ていて気持ちがいい。

本郷パーティの声が届いていて、先に行って待っていると言われていたのですぐに懸垂下降を開始、インスボンの頂上まで急いでいった。

みんな丁度懸垂下降にとりかかっているところで、2ピッチでコルまで降りることが出来た。

<町でお買いもの>

この日は一度町まで買い物に行って夜にもう一度戻ってくる予定だったが、小屋のお兄さんの「町で泊まった方がいいのではないか?」

というもっともな問いに賛成し、東大門に宿を取ってもらうことにして急いで荷物をまとめて小屋を後にした。

トソンサからバスを2回乗り継いで東大門市場の登山用品店まで一気に行った。

バスの中は絶えずラジオがかかっている。

いつも思うが、海外旅行で一番面白いのはバスに乗るときだ。

看板の文字がほとんどハングルなのが不思議。

普通の人達の普通の生活が目の前に展開していて、ほっぺをつねりたくなる瞬間だ。

山道具はほとんどの物が日本よりも安いが、特にファイブ・テンの靴がやすい。

みんなの買い物もほとんどその辺に集中していた。

私にしてはなんと3足も買ってしまった。

・モカシム 5000円

・ボルダー用クライミングシューズ 7500円

・最新ファイブテニー 7500円

これだけのためにソウルに来るのもありかもしれない程の安さだ。

ソウルには観光しに仕方なく来てしまったクライマーもこれは覚えておいた方がいい。

<町での豪遊>

夕飯は焼き肉屋で「プルコギ」や骨付きカルビをを食べた。

かなりうまい。

さんざん飲んで食べて一人1500円程。

後は夜のソウルをそれぞれ楽しんだ。

ほろ酔いでソウルの町を歩いていると夢の中の世界みたいだった。

宿は完全に「連れ込み宿」でひとり1000円、一昔前は東京にも沢山あったのだろう。

電気を完全に消しても赤い明かりが灯るようになっている。

本郷・森田の部屋で最後の宴会をした。

10月10日(日)

李さんに起こされた。

朝から雨が降っていて、天気に関しても本当に恵まれたツアーだと思った。

バスに乗って空港まで一本。

雨のソウルの町並みもなかなか。

空港では便所でえらい人に話しかけられて名刺までもらった。

待ちに待った飛行機の朝食はやっぱり少なくてあまりおいしくなかった。

<おしまい>

 

 

谷川岳 一ノ倉沢 衝立岩ダイレクトカンテ

1999年9月26日(日)
向畑、倉田(記)

朝起きるとガスが掛かっている。

ノロノロとしていると天気が良くなってきたので出合を出発。

ダイレクトカンテ取付きには先行が既に2パーティー。

最初のパーティーがなかなか進まず、次のパーティから団子状態。

もっと早く出れば良かったなあと思う。

8時頃取付きから登り始める。

1ピッチ目向畑さんリード。

部分的に濡れていて嫌な感じ。

ビレーポイントにたどり着くと最初のパーティが抜けてない。

フォローが、はまってしまったらしくて、後を追う次のパーティ(岩峰登高会)のトップが変なところで待たされている。

私たちもここでかなり待つ。

左隣の雲2やその隣の雲1なんか特に大盛況で人がいっぱいいた。

ちなみに、残りのピッチ、登りたいでしょと向畑さんが言ってくれ(気持ちが顔に出たみたい)残る3ピッチを私がリードさせてもらう。

前の岩峰パーティのフォローが出るのに続いて登り始める。

2ピッチ目、ハングにそって左上する。

みずが染み出てくるのか時折雫が落ちてくる。

腐ったピンが結構あった。

ビレーポイントにつくとまだ最初のパーティが抜けてない。

後を追う岩峰パーティがまた変なところで待たされている。

向畑さんに登ってきてもらうが最初のパーティがなかなか進まず、また待つ。

天気はいいが、風が強くザイルが舞い上がるほど。

とっても寒い。

3ピッチ目A2らしいが始まりにペツルが打ってあるのでなんか変。

ピンはラダーで、難しくない。

途中3mmシュリが今にも切れそうで、最近太り気味の私が乗るとパサついていた。

このピッチは、ハングを完全に廻りこんで、5mほど右側の壁にトラバースしたところできる。

本当のビレーポイントはハング抜けたすぐのところらしい(雲2のすぐそば)。

4ピッチ目はフリー交じりですぐに北稜につく。

おそらく15:00頃。

結局待たされた時間が2時間以上あった気がする。

北稜下降は初めてだったので全て懸垂してたら時間掛かってしまい、結局出会いには18:30頃つく。

 

 

平松・石原の追悼山行に参加して北アルプス・五龍岳

1999年9月5日
瀧島、関(記)

事故から5ヶ月あまり過ぎた9月5日に平松・石原の追悼山行に瀧島さんと参加してきました。

慶応のメンバーは前日から入山して五龍山荘に泊まっているので、できるだけ早く合流すべくまだ日も明けぬうちから歩き出し、なんとか9時半頃に五龍岳頂上直下の事故現場にたどりつきました。

現場につくと慶応側のパーティーが20人以上いて驚きました。

御遺族からも、平松の2人のお兄さんと石原君のお母さんと叔父さんが参加していました。

現場には大きなケルンが積まれ、たくさんの御供え物にかこまれて平松と石原君の写真が飾られており、心のこもった追悼会を感じさせます。

皆が線香をあげている姿をみていると彼らが多くの人に愛されていたことがしみじみと伝わってきます。

慶応の人達から聞く平松や石原君の素顔は秀峰の我々が知らなかった面も多く、彼らは非常に面倒見の良い人柄でそれだけに人望も厚かったようです。

秀峰では多少遠慮していたのかもしれません。

私は、石原君とは面識がなかったのですが、平松とは家が近く世代も近くそしてなによりも山の志向が一致していたので、1年余りの間でしたがいくつかの山行を共にしました。

彼は雪稜が好きで、ひょうひょうとした風体でこなすラッセル力は抜群でした。

また彼は独特のマイペースさをもっており、そんな彼の冷静な読図力はなかなかのものだったと思います。

彼との山行では、昨年1月に2人で行った足拍子岳が印象に残っています。

深いラッセルの末にたどり着いた山頂で、彼は感激しながら「いやぁー、こういうのやりたかったんですよー、いいっすねー、いいっすよー」と一人頷きながら語りかけてくるのでした。

私も自分の趣味を分かち合える仲間をみつけて大喜びでした。

この山行以後互いに志向の一致を確認し、いくつかの夢を語り合うようになりました。

その中でも何度かあがったのが、「冬の剱」です。

今はまだ実力がないけど、いつか自分達の力で冬の剱に行こう、そして今は上越や後立の雪稜を登って力をつけよう、と。

秀峰の一員としての彼らは短い期間であったし、会への出席率も低かったので存在が薄かったかもしれません。

それは彼らの責任であり、死んでしまった彼らも分かっていることでしょう。

けれども事故から5ヶ月余り過ぎ、彼らの存在が秀峰の中でますます薄くなっていくような気がして、ペンをとりました。

私にとって平松はかけがえのない仲間でした。

平松、そして石原君(会ったことないけど)どうもありがとう。

短かったけれど共通の目標を分かち合い共に過ごした日々は私の財産です。

 

 

上州武尊山 薄根川 川場谷

1999年9月1日
森広(記)

6:30頃沢に下る。

最初は火砕流堆積物のようなもので川床ができている。

最初のうちは滝らしい滝はなく、ちょっとしたナメがでてくるくらい。

まるで壺の底のようになっていて暗いウナギの寝床を過ぎると小さな滝やナメが続くようになる。

茶褐色の凝灰岩で、脆そうに見える。

獅子ノ牢は両側の斜面に岩が生えているが、川床は何もない。

この岩は稜線からもよく見えた。

左岸から支流が入ると、滝も今までより少し大きいのがでるようになった。

相変わらず茶褐色の凝灰岩で、柔らかいので岩盤に穴があいて釜になっていたりする。

ここのナメが一番きれいだった。

源流が近づく頃、たいして強くはないが硫化物の臭いがした。

次の滝の隅に薄黄色い沈殿物がついている。

この先も点々とそういうところがあった。

まだかすかに生きている山らしかった。

水がなくなっても溝のような沢をつめていく。

両側笹のトンネルで、足元の石も不安定だ。

二俣になるたびに深い方を登って、できるだけまともに薮に入るのを遅らせるが、ついに溝がなくなった。

笹薮は背丈より少し高く、見通しが利かない。

笹だけのうちはよかったが、低木が増えてくると丈夫な枝がからみあって身動きがとれない。

時速200mくらいじゃないだろうか?クロウスゴが実っていたので、見つける度に味わう。

薮にハイマツが混じってきてから30分ほどで稜線、疲れた。

めんどくさいから頂上は省略したかったが、道はどうでも頂上を通らなければならないようにできていて、道を外れるとすごい薮なのでしかたなく沖武尊、中ノ岳、家ノ串、前武尊の各ピークを通過。

不動岳はそれこそ省略したかったが、一旦こっちの道に入ると戻るのも面倒で、溶岩でできた岩場を通過。

霧で何も見えなくなり、雨が降ってくる。

一旦雨が止んで虹が出たが、しばらくして二回目の雨。

沢の中でも被らなかったヘルメットを、雨よけに被る。

傾斜が落ちてきた頃、すっかり暗くなったのでヘッドランプを灯し、旭小屋を経て川場谷出合いに戻る。

五日市 北秋川流域 ヒヤマゴ沢

1999年8月29日
金城(武蔵大ワンゲルOB)、畠中(記)

大学時代からの親友で、今ではすっかりサラリーマン?の金ちゃんとワンデイ沢登りに行くことになった。

当初の予定は、御前山に突き上げる惣角沢。

7時40分に登り始めるも、F2の高巻きで、畠中が蜂の巣を踏んでしまったようで、蜂の襲撃を受け、あまりの痛さにきた道を二人で走って逃げた。

結局私は5ヶ所刺されたが、金ちゃんは無傷。

しょうがなくF2の直登を試みたが登れず。

トポにはシャワークライムと書いてあったが、そんな水量ではなかった。

金ちゃんが目を輝かせながら「登ってみていい?」と言うので、トライしてもらったが、ものの見事に吹っ飛ばされて釜に落ちていった。

そして、どちらともなく車に向かって歩き出した。

さて、楽しいはずのワンデイ沢登りも蜂の傷が痛むたびにモチベーションとテンションを奪われる始末。

しかし、昨日せっかく沢タビを買った金ちゃんの手前、簡単に帰るわけにも行かない。

車に戻り、トポ(ついこの前買った「奥多摩の沢123ルート」というやつ。2000円もするので買おうか迷ったが、買っておいて良かった。)を見て、すぐ近くのヒヤマゴ沢に行くことに決め、移動。

9時20分に登り始め、11時5分に登山道に出た。

11時40分には車に戻った。

ロープも使わず、出てくる滝はすべて直登でき、短くて初心者も楽しめる沢だった。

ただ、滝の取り付きに私がいて、登ろうとしていたら、3m上を登る金ちゃんが「はたなかー」と叫ぶので上を見ると、大きな石が私めがけて落ちてきて、避けきれず右膝に直撃し出血。

これも痛かった。

というわけで、右足は落石、左足は蜂に蝕まれ、ボロボロの体で下山したのでした。

もともと風邪を引いていた私ですが、その日の夜に発熱し(38.8℃)、うなされてしまいました。

まさか蜂の毒じゃないよね。

まさか蜂の毒じゃないよね。

そんなこんなの山行記録(相変わらず山の記録は少ないが)を水枕を片手に病床よりお届けしました。

チャンチャン

 

 

前穂高岳 北尾根IV峰 松高ルート、北条=新村ルート

1999年8月19日~22日
向畑、倉田(記)

8/19

当初、屏風のトリプジョーカーに行こうとしていたが、これからの天気や装備の関係で中止。

天気は晴れていて、もったいなかったけどこの日は涸沢まで。

8/20

3時起床。

4時半出発。

5・6コル経由で、IV峰C沢入口にたどり着いた頃からガスがかかる。

ルートが良くわからずいつのまにか松高ルートの3ピッチ目取付きにいることに気づく(9時半頃)。

右下のほうに甲南テラスとT1らしいものが見える。

雨もかなり降ってきたので、当初北条・新村ルートに行くはずだったのをあきらめ、そのまま松高ルートへ。

残り4ピッチは、岩が乾いていたらきっと快適なんだろうけどなあという感じ。

始めのフェースは向畑さんリード。

次、倉田リード。

岩が濡れていて怖かったので、ピンを思いっきりつかんで登る。

次、15mを向畑さんリード。

最後左上するところ、倉田リード。

終了点に13時頃。

下降路は、IV峰まで遠かったがIV峰経由で北尾根へ。

IV峰まで、かなりの(しかも大きい)浮石があり、下で登っている人がいたらやばい感じ(地震の影響がまだ残ってるのかな)。

IV峰下り始めたのが14時半ぐらい。

5・6コルまでの下りで2ポイント悪いところがあり、クライムダウンで私は密かに泣きが入ってしまう。

16時に5・6コルで、17時に涸沢につく。

ここは天気が良く、(尾根上だけガスが掛かっている。)

生ビールがうまそうだった。

(飲まなかったのが悔まれる~)

8/21

この日は、Dフェースの都立大ルートに行こうとも言っていたが(気持ちだけデカイ^^;;)、涸沢天気予報で、(テン場の前に貼り出される予報でぴったしかんかんで当たる)また天気が良くないのがわかっていたので、確実な北条=新村ルートにする。(昨日登れなかったので悔しかったのもある。)

起床3時。

4時半出発。

9時頃、取付きから登攀開始。

1ピッチ目向畑さんリード。

次2ピッチ目、倉田リード。

登るにつれてだんだんガスが濃くなってくる。

3ピッチ目向畑さんリード。

4ピッチ目倉田リード。

核心IV.A1だがピトンも効いていて、ラダー。

しかも岩も堅い。

フォローの向畑さんは2つあるハングの最初のハングを人工ではなくフリーで越してくる。

次のハングはフリーでは無理だったとのこと。

5ピッチ目向畑さんリード。

ピナクルから右へトラバースして左上。

このピッチのトラバースでは使えるホールドが全てぐらぐらしていてさすがの向畑さんも一部人工。

このルートの実際の核心はここのような気がする。

6ピッチ目倉田リード。

フェースから凹状。

岩がぐらぐらしていてIII級らしいが気分的に悪い。

凹状登っている時にまじめに雨が降り始める。

ぶよぶよの草つきがよけいぶよぶよになって、だましだましのぼる。

2人ともここで全身ずぶぬれ。

終了点が良くわからず途中で切る。

向畑さんに登って来てもらってそのまま登ってもらうと、這い松を掻き分けて少し右上して終了点だった(14時頃)。

昨日クライムダウンした北尾根の下降は、懸垂点が右に回りこんだところにいくつかあって、懸垂で下る。

19時頃涸沢着。

私はまたもや、よれよれ。

でも明日は滝谷に行こうと言っていたが、結局天気が悪いのであきらめ、この日はやけ酒飲む。

8/22

朝ゆっくり起きて、とろとろと下山。

今回、ぶよの大群につきまとわれ、かなり刺されたが、坂巻温泉に入ったら不思議とかゆみがおさまった。

虫刺されに良く効くみたい。

 

 

日原 小川谷 カロー川谷

1999年8月22日
瀧島、関、畠中(記)

その日は暑かった。

絶好の沢日和だった。

そして、それは突然だった。

私はゆっくりと沢タビを履いた。

ハーネスを手に取りはこうとしたその瞬間、体に電気が流れたような感じがした。

キジだった。

草むらで朝日を浴びながらのんびりとキジを楽しんだ。

生きていて良かった。

さらば我がキジよ。

余韻に浸りながら満足気に車に戻ると、頭を抱えている一人の30歳目前の大人がいた。

S:「あー」

H:「どうしたんですか?」

T:「こいつよー、もー、どうしようもねえんだよ。」

H:「だからどうしたんですか?」

S:「沢靴がない。」

H:「へっ?」

S:「沢靴忘れちゃったよー。ごめーん。」

H:「また?またっスか?」

T:「太郎、おまえ帰りにソバおごれよ。」

S:「はい。」

H:「天ぷらも付けてね。」

というわけで、奥多摩まで戻り、わらじ(700円。売ってるんですねー。)を買って、ルートも小常木谷からカロー川谷と変更になった。

9時50分に取り付き、14時に長沢背稜の縦走路に抜けた。

小ぢんまりとしていてなかなか良い沢だった。

ロープは使わず。

その後、一杯水避難小屋経由ヨコスズ尾根下山。

関君、次は頼むよ。