1999年9月5日
瀧島、関(記)
事故から5ヶ月あまり過ぎた9月5日に平松・石原の追悼山行に瀧島さんと参加してきました。
慶応のメンバーは前日から入山して五龍山荘に泊まっているので、できるだけ早く合流すべくまだ日も明けぬうちから歩き出し、なんとか9時半頃に五龍岳頂上直下の事故現場にたどりつきました。
現場につくと慶応側のパーティーが20人以上いて驚きました。
御遺族からも、平松の2人のお兄さんと石原君のお母さんと叔父さんが参加していました。
現場には大きなケルンが積まれ、たくさんの御供え物にかこまれて平松と石原君の写真が飾られており、心のこもった追悼会を感じさせます。
皆が線香をあげている姿をみていると彼らが多くの人に愛されていたことがしみじみと伝わってきます。
慶応の人達から聞く平松や石原君の素顔は秀峰の我々が知らなかった面も多く、彼らは非常に面倒見の良い人柄でそれだけに人望も厚かったようです。
秀峰では多少遠慮していたのかもしれません。
私は、石原君とは面識がなかったのですが、平松とは家が近く世代も近くそしてなによりも山の志向が一致していたので、1年余りの間でしたがいくつかの山行を共にしました。
彼は雪稜が好きで、ひょうひょうとした風体でこなすラッセル力は抜群でした。
また彼は独特のマイペースさをもっており、そんな彼の冷静な読図力はなかなかのものだったと思います。
彼との山行では、昨年1月に2人で行った足拍子岳が印象に残っています。
深いラッセルの末にたどり着いた山頂で、彼は感激しながら「いやぁー、こういうのやりたかったんですよー、いいっすねー、いいっすよー」と一人頷きながら語りかけてくるのでした。
私も自分の趣味を分かち合える仲間をみつけて大喜びでした。
この山行以後互いに志向の一致を確認し、いくつかの夢を語り合うようになりました。
その中でも何度かあがったのが、「冬の剱」です。
今はまだ実力がないけど、いつか自分達の力で冬の剱に行こう、そして今は上越や後立の雪稜を登って力をつけよう、と。
秀峰の一員としての彼らは短い期間であったし、会への出席率も低かったので存在が薄かったかもしれません。
それは彼らの責任であり、死んでしまった彼らも分かっていることでしょう。
けれども事故から5ヶ月余り過ぎ、彼らの存在が秀峰の中でますます薄くなっていくような気がして、ペンをとりました。
私にとって平松はかけがえのない仲間でした。
平松、そして石原君(会ったことないけど)どうもありがとう。
短かったけれど共通の目標を分かち合い共に過ごした日々は私の財産です。