1999年12月4日
向畑(記)、倉田
12月3日夜八王子集合、4人乗ると荷物が積めなくなるので、シビックの屋根にザックを載せたりしていたら、出発は4日0時頃となってしまった。
途中、ししが岩に向かう森広、三好の師弟コンビを舟山十字路で降ろし、美濃戸へと向かう。
この時、誰も気付いた人はいなかったが、サイフ、眼鏡のほか、ヘルメット、食料などが入ったカモシカバックが車の中に忘れられていた。
師弟コンビがその後どのような経過をたどったか、それは本人達の記録発表を待ちましょう。
八ヶ岳は全然雪が無く、シビックでも美濃戸まで問題なく入れる。
ちなみに、以前乗っていた軽自動車も含めて、自分の車で美濃戸まで入れたのは初めてだ。
美濃戸には夜中の2時30分頃到着。
このまま用意して出かけるとちょうどいい時間になりそうだが、ちょっとだけ仮眠しようとして車の中で寝袋に入ったら、駐車場係のお兄さんに6時15分くらいに起こされてしまった。
私はともかく、決めた時間に必ず起きて起こしてくれる倉田さんが寝過ごすのは珍しいと、変なことで感心してしまった。
用意して美濃戸を出たのが7時15分くらい。
まわりの車の人達は大方が出発しており、すでにかなり出遅れた雰囲気だ。
赤岳鉱泉から大同心稜へ向かったが、この辺に来るのも久しぶりだったので、大同心稜には末端から取り付いてしまい樹林を掻き分け進んでいたら、大同心沢を詰めてから上がってくる立派なトレースに合流、大同心基部には10時30分頃到着した。
当初、雲稜ルートを予定していたが、既に3人パーティが取り付いている。
右フェースにも2人パーティが取り付いており、両方ともまだ1ピッチ目にいる。
ゆっくり用意しながら様子を見ていたが、どちらもかなり時間がかかりそうなので、真中の中央ルートを登ることにした。
このルートは、以前当会にも在籍したことのある新保おじさんが数年前の岳人に発表していたが、初登者等は不明、中央ルートも仮称で正式にはわからないらしい。
また、中央ルートは4年前に雲稜ルートと間違えて取り付き、ホールドがはがれて墜落した、私にとってはいわく付きのルートで、前々から多少心の片隅に引っかかっていた。
その時は、ノーピンでのフォールにもかかわらず止めてくれた瀧島さんや、下山後捻挫で歩けなくなった私を車で自宅まで送ってくれた板橋君には大変ご迷惑をおかけしました。
前置きが長くなりましたが、以下記録です。
1ピッチ目、11時に登り始める。
ビレーポイントはリングボルト1本、目の前のフェースを右から回り込んで登るが、出だし5mほどはピンがない。
バンドの上に浅打ちのリングボルトが、八ヶ岳特有のはがれそうな突き出たホールド状の岩に打ってある。
バンドをトラバース後左上、ここもピンがなくて怖い。
さらにフリーと人工で直上、ロープを40mほど伸ばすとボルト4~5本の立派なビレーポイントがある。
人工からフリーに移り、また人工のピンを取るまでがちょっと難しい。
問題の2ピッチ目、前回は登っていてもルートを間違えていることに気付かず、雲稜ルートのトポを見ながら右の凹角状を登ろうとして墜落した。
その後、新保さんの記述を見ると、左に回り込むことになっていた。
左のカンテをトラバースして回り込むと、上部にピンが連打されている。
ここも、出だしから5mほどランナウトする。
数回アブミを架け替えると、草付き混じりのフェースになる。
フリーとダブルアックスを交えて登り、草付きのバンドを左にトラバースすると雲稜ルート4ピッチ目あたりに合流する。
このピッチも40mほどで、草付きフェースから雲稜ルートと合流するまでの20~30mほども、難しくはないがピンはない。
時間は15時。
2ピッチでたっぷり4時間かかってしまった。
以降、雲稜ルートをたどりドームの基部へ。
すでに16時30分になっていたのでドームは割愛。
この時間でもドームに取り付いているパーティがいて、暗くなるのに大変だなと思っていたら、当パーティも1回目の懸垂でロープが来なくなり、倉田さんに登り返してもらったりしていたら真っ暗な中での懸垂になってしまった。
大同心の基部に戻ったのが19時15分頃。
美濃戸に戻ったのは22時を過ぎていた。
5日の日曜日は雨の予報だったので4日のうちに帰るつもりだったが、帰っても夜中になってしまうのであきらめ、美濃戸口から少し下ったところでビバーク。
5日朝、取りあえず雨は降っていない。
国道20号を南下するが、甲府に近づくにつれだんだん晴れてきたので太刀岡山に行った。
そして、17時頃帰ろうとして甲府昭和インターから中央道に乗ろうとした直前、車中に携帯の音が鳴り響いた。
その後、荷物が錯乱していた車中から忘れ物を発掘し、甲府駅まで届けに行くことになる。
改札口に荷物を届けに行った倉田さんによると、どうやら師匠の方はあきれて先に帰ったしまったらしく、弟子が1人で待っていたそうだ。
それにしても、どうしてその時間に、弟子が甲府駅にいたのかは謎のままである。