前穂高岳 屏風岩雲稜ルート

1998年12月30日~1999年1月3日
向畑(記、♂37歳)、富安(♂25歳)、倉田(♀25歳)

~最初に感想~

雲稜ルートは、当初比較的軽く考えていたが、T4尾根を含めて部分的に悪く、結構登りがいがあった。

積雪状況は、いろいろな人の話を総合すると、平年よりは少なく、寡雪であった昨年よりはかなり多いという感じだが、入山前夜の29日夜から30日、31日夜から1日未明、2日とかなりの量の降雪があり、割と充実した冬壁登りとなった。

年齢が1回り離れた若手2名は、次々と浴びせ掛けられる小言にもいやな顔一つせず、重荷にもめげすよくがんばっていた。

おかげで、良い正月山行になったと思う。

12月29日

夜行で松本へ。

12月30日

タクシーで釜トンネルゲートへ、途中から小雪がちらつき、釜トンネルでは本格的な降雪となり、上高地では吹雪。

横尾の冬季小屋には13:00過ぎに付いたが、やることもないので、明るいうちからさっさと寝てしまった。

12月31日

3:00起床、4:30出発。

天気は曇り、たまに晴れるが一時雪。

1ルンゼをつめ、7:00頃にはT4尾根取付きに到着。

順番待ちの場合は、ディレッテシマルート経由でT4まで登るつもりだったが、先行は1パーティのみ、しかも2人パーティなので、そんなに時間はかからないだろうと思い待つことにした。

結果はかなりの時間を待つことになってしまったが、スラブには氷はなく、ホールドには氷雪の付着が激しく、登ってみるとかなり悪かった。

1ピッチ目、アブミからダブルアックスでビレイポイントへ、一気に2ピッチ目の終了点までロープを伸ばしたかったが、上がつかえているので細かく切って行くことにする。

2ピッチ目はさらに悪く、先行パーティはセカンドまではまっている。

おまけにアブミが1台と、プレート1枚だけの簡易アブミがヌンチャクとともに残置されている。

残置アブミ最上段から、さらに支点にかかっているカラビナにアイゼンの前爪をねじ込んで立ち込み、フリーからダブルアックスで潅木帯に抜ける。

アブミは後続のユマーリング隊に回収してきてもらう。

さらに潅木帯と尾根上を2ピッチ、ルンゼ状の岩場1ピッチでT4へ。

時間は既に14:00を回っている。

しかも、別パーティが雲稜ルートを登っている。

蒼稜ルートを登っているパーティもいるため、大テラスをあきらめT4泊りとし、荷物を置いてフィックス工作を開始。

せめて2ピッチはフィックスしておきたかったが、上に人がいるため、1ピッチ目終了点から下降、16:00ごろ終了。

1月1日

夜から降雪が激しくなり、何度か除雪を考えたがそのまま朝まで寝てしまった。

4:00に起きるが、ツェルトが埋まって身動きが取れない。

1人ずつ靴を履き除雪、ツェルトをはり直し、再び潜り込んで朝食。

快晴のなか、登り始めたのは8:00近かった。

フィックスをユマーリングし、2ピッチ目へ。

5mほど登ったところで、フリーを1ポイント省略しようと思いアングルピトンを打ったが、カラビナにアングルがたくさん通るよう携帯用に付けてあった4mmスリングに、不用意にアブミをかけたらスリングが切れて墜落、せっかく登ったのにビレイヤーのすぐ上まで戻ってしまった。

再び登り直し、ピナクルを回り込んで3ピッチ目のビレイポイントへ。

3ピッチ目は最初ピンが全然見当たらなかったが、雪を払うと次々と現れ、ほぼ人工でピナクルへ。

さらに雪の詰まったバンドをダブルアックスで扇岩テラスへ。

時間は既に14:00、この時点で当初計画していた屏風の頭経由での下山をあきらめ、テラスに不要な荷物をデポする。

4ピッチ目はA1の人工、5ピッチ目は後続のユマーリングを考え、オリジナルの直上ルートを登ろうと思っていたが、気が付いたら既に右トラバースルートに入っていた。

ハング下をトラバースし、東壁ルンゼに回り込んだところでピッチを切る。

後続2名は、斜上のユマーリングにかなり苦労しながら上がってきた。

17:00を回っていたので本日はここまでとし、50m目いっぱいの懸垂で扇岩テラスへ戻る。

後続2名は、今度は斜め懸垂のランナーの架け替えで苦労している。

さらに大テラスに下り、19:00ごろビバークに入った。

1月2日

寝たのが22:00と遅かったため、5:00起きにした。

今日は朝から雪が降っている。

扇岩テラスに登り返し、50mのユマーリングで昨日の到達点へ。

6ピッチ目、東壁ルンゼ内の1ポイントのフリーが悪く、エイリアンの人工でテラス状のビレイポイントに這い上がる。

続く最後の2ピッチが核心となった。

7ピッチ目、ルンゼ状スラブに氷がびっしりと張り付いている。

傾斜は約60度、アイスグレードで4級程度だと思うが、何分氷が薄い。

多分使えないと思うが、アイスハーケンのたぐいは1本も持参しておらず、残置地支点も下から見る限り1本も見当たらない。

何よりも、満月のような前爪の岩専用のアイゼンが心もとない。

ビレイポイントは浅打ちボルト3本だが、周辺にハーケン、ボルトが数本乱れ打ちされているうえ、テラスの下部には立派な立ち木まである。

一応ロングフォールに備え、立ち木にテンションが掛かるように上のビレイポイントと分散荷重にしてもらい、周辺のハーケン、ボルトを連結し、最初の衝撃はそこにかかるようにロープをセットして出発。

10mほど登り、傾斜が一段と強まる手前でアックスにテンションを取り休憩、ぶら下がりながら右側壁の氷雪を叩き落としたら残置ハーケンを発見。

ついでにクラックにエイリアンをねじ込み、固め取りする。

使える氷の幅は狭く、流心をはずれると、アックスが岩をたたき火花が散る。

このころから降雪が一段と激しくなり、ものすごい量のスノーシャワーを一発食らった。

さらに10mほど登ったところで右側壁にボルトを発見、さらにロープを伸ばし、左露岩の雪を払ったらボルトが出てきたところで「あと5m」のコール。

ハーケン2枚をねじ込んだが、1枚の効きがあまい。

しかたなく、生涯使わないと心に決めていたボルトを1本打ち足した。

8ピッチ目、ルートは氷から雪交じりになってくる。

傾斜は幾分落ちてきたが、氷雪は安定しておらず、だましながらの登はんが続く。

残置支点も発見できなくなり、あまりにも頼りないブッシュを掘り出し、一応ランナーをセットする。

25mほど登ったところで金属物のようなものを発見。

待望の支点かと思って雪を払ったら、バイルが氷雪壁に刺さっていた。

リストループにはカラビナがかけてあり、ここまで来て行き詰まり、バイルを支点にして下降したらしい。

有り難く回収させていただき、さらにロープを伸ばす。

「あと10m」のコールがかかったころ、雪壁のどん詰まりにある最初の潅木に到着。

掘り返して見ると、下からハーケン、ボルトが連打された岩も出てきた。

正確な終了点はどうもよくわからないが、この辺で多分終わりだろうと思い、ここから下降開始、13:30。

東壁ルンゼ沿いに2ピッチ、そこからルンゼを離れ、オリジナル直上ルートどおしに2ピッチの懸垂で、ほぼダイレクトに扇岩テラスに到着、15:00。

かなりの降雪量で、朝登り始めた時よりテラスが一段上がっている。

テラスで上の2人を待っている時、朝から気になっていた1ルンゼの雪崩の一発目が出た。

大テラスに下って大急ぎで装備を撤収。

大テラス下側の支点からだと1回の懸垂でT4に届くが、埋まっていて使えないため、通常の支点から目いっぱいスリングを伸ばし、その末端から懸垂したら下まで届いた。

T4の支点は埋まっているので、1本目の立ち木までクライムダウンし、そこから懸垂。

さらにブッシュを支点に1ピッチ下るが、尾根の形状が変わるほどの雪で、途中から左に寄り過ぎたため、腰までの深雪にあえぎながら軌道修正、40mほど伸ばしたらロープが引けなくなってしまった。

富安君に途中まで降りてもらいロープを掛け直したら、今度は引きロープと反対側のロープがブッシュにからまって来なくなった。

仕方がないので富安君に尾根を少し登り返してもらい、できるだけ上の方でロープを切ってもらったら40m以上回収できた。

もたもたしているうちに真っ暗となり、ヘッドライトを付けての下降となる。

50mロープシングルでT4尾根2ピッチ目の終了点へ。

1ピッチ目上の支点に行くには、かなり左に寄った斜め懸垂となるため、回収できた40数mのロープをフィックス、末端に八の字を作り、そこからさらに懸垂するという荒業を敢行。

しかし、降雪と尾根上からのスノーシャワーで、2日前に登り始めた時より取付きが2m近く上がっており、1回目のフィックスロープの懸垂で、あっけなく下まで届いてしまった。

続いて倉田さんが降り立った時に、1ルンゼ上部から轟音が聞こえてきた。

2人で側壁に張り付いていると、約30秒間程度、暗闇と風雪で何も見えないが、背後を雪崩の音が通り過ぎて行った。

規模の大きなものはしばらく出ないとは思うが、降雪は続いており危険な状態に変わりはない。

デブリの跡を下るのが最も早いが、恐ろしいので、左側の樹林帯沿いに下降する。

途中からトップを代わってもらった富安君が、腰までのラッセルを物ともせず、ものすごい勢いで駆け下って行く。

「1分1秒を争うから急げ。」

と言っていた本人は、最も荷物が軽いのにもかかわらず、2人から遠く遅れながらよたよたと付いて行く。

樹林帯に入ると、2人の姿は完全に見えなくなった。

もう大丈夫かと思ったが、5年ほど前、当時はまだあった樹林帯の岩小屋の中で休んでいたら、上を雪崩が通過していったことや、出合いの川原に達する規模の雪崩も出る事を聞いていたので、休まないで下降を続けた。

ふらふらになって川原を渡り、対岸の登山道についたら、2人はずいぶんと長い間、荷物も置かずに待っていてくれた。

横尾の小屋に入ったのは、20:00近かった。

1月3日

8:00ごろ起きたが、なかなか誰も寝袋から出ようとしない。

ゆっくりと朝食をとり、装備を整理して10:30ごろ出発。

天気は晴れたり曇ったりで、たまに雪もぱらついていた。

途中、徳沢、明神、上高地、大正池ホテルと、各お休みポイントごとにのんびり休憩しながら帰路についた。

釜トンネルゲート着15:00ごろ。

~最後に~

収穫:
バイル = 1本(ブラックダイヤモンド製)
アブミ+簡易アブミ = それぞれ1台
ヌンチャク = 1本
カラビナ = 7~8枚(どういう訳かいっぱい残置されており、あちこちにぶら下がっていた)

損失:
ロープ = 1本(50m)
カラビナ = 2枚(落とした)
アングルピトン = 1本(前進用、「抜いてきてくれー」と主張するのを忘れた)
ナイフブレード = 1本(懸垂支点用)
リングボルト = 1本(アンカー用)
スリング = 多数

 

 

南アルプス 甲斐駒ケ岳 戸台川本谷

1998年12月30日~1999年1月1日
浅田、櫻井、山本、荒井、井上、児矢野

12月30日

前夜の車の疲れも残って、入山の日の朝は遅い。

河原の駐車場には駐在もあって、計画書を集めている。

10:00駐車場発 12:30丹渓山荘下。

大型テントを張る。

水もとれ、便所もある快適なキャンプ。

このあと、舞姫の滝を見に行ったが、水量の少なさ、冷え込みの足りなさ、たぶん両方のために登るような氷の状態ではなくほとんど岩が剥き出しだった。

さらに本谷奥の右手上に氷が見えたのでアプローチしてみる。

鶴姫ルンゼだろうか、50mほどガレを登ると垂直を含む15mほどの氷瀑にあたる。

つららの集合体でそれぞれが細すぎるのでトップロープを試みるが、右からの巻きがまた悪く、時間もないのであきらめる。

12月31日

7:00発 8:30 F1下 12:00 F2上(駒津沢出合い)
4時半には起きよう、と話し合っていながら皆で寝過ごしてだらしなくも、結局出発は7時になってしまった。

F1は左に豊富な水量の滝がしぶきを上げて落ちており、右半分も不完全な凍結で安定してない。

これからの長丁場に備えてここは右のルンゼの氷を登る。

ここは20m・70度程度。

そのあと本谷に平行してやや不安定な高巻きをしばらくしまた本谷の河床に降り立つ。

F2は中央は薄い氷の幕の裏をバシャバシャと水が落ちているのが見えるが、右の岩に沿っては比較的厚い氷がきのこ状に伸びている。

最新ギアに身を固めたYさんがリードする。

Yさんは本当に岩に沿うラインをねらうが、結局、氷のあるほうに戻ってきてロープを伸ばした。

ジェフ・ローのビデオの見すぎか?
駒津沢出合いのF1はしっかり登れそうだった。

「ここで、遊んでテントに戻るのもいいか?」

などとも考えた櫻井だったが、パーティーの総意は「ちゃんと上まで行こう」

だったので、駒津、奥駒津とそれぞれ、よだれをたらしながら横目で見送った。

F2から上は、やや単調な谷歩きが続く。

時々出てくるナメの氷を乗り越えることと、特に左岸の枝ルンゼにいくつかあらわれる巨大な氷のシャンデリアが、刺激を与えてくれる。

アイスクライミング(白山書房)のトポでは迷わず本谷を詰めていけると思えたが、実際はいくつかの二俣状の分岐でそれぞれ判断が必要だった。

途中、新しいビバーク跡があり、ここからトレースがはっきりつけられていた。

15:00六方石ルンゼ出合い 16:00トラバース開始
六方石ルンゼの出合いを見送ると本谷の右の稜に赤テープが見え、先行のトレースもここを進んでいる。

これについていくと、尾根状をあがっている。

右には六方石の稜線が近くに見え、時間、体力を考えるとビバークなしでキャンプに戻るにはここでトラバースしたほうが良さそうだということになった。

氷と雪のつまった広いルンゼをトラバースし六方石への扇状の斜面に出る。

ラッセルが深くなり(ひざ上から腰)体力を使う。

高遠の灯火が見え西の空がオレンジから紫、そして闇に染まっていく。

しかし、この日は13夜で闇が濃くなると今度は東の空から月が照らしてくれる。

対岸の斜面の疎林には月光があたり雪面には潅木の落とした影がくっきりと見える。

18:00六方石稜線
稜線直下の岩場を回りこむと、フラッシュライトのような月明かりが顔にあたり、そこが稜線だった。

風は強いが甲府の夜景も美しく、ピークを踏めなかった甲斐駒ケ岳も月明かりの下、ヒマラヤのジャイアンツのように妖しく美しかった。

22:45丹渓山荘下キャンプ着

1日1日

深夜残業となってしまった昨夜の疲れで、さらに登る元気を無くし結局、予定を早めて帰ることにした。

 

 

岡山クライミングツアー

1998年12月25日~1999年1月1日
中嶋(記)、 同行者 菊池、曽根、李

12月25日 夜行バス 渋谷発~姫路行

12月26日 権現谷(岡山備中)

12月27日 デッケン(岡山備中)

12月28日 杉田ロック(岡山備中)

12月29日 デッケン(岡山備中)

12月30日 王子ケ岳(岡山、海のほう)ボルダー

12月31日 北山公園(大阪らへん)ボルダー

1月1日 帰京

強いて成果といえばリードでは11dのオンサイトが2本、ボルダーでは沢山の良い課題。

一番の成果はツアー(旅)そのものです

以下おおまかな概要

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12月26日

(晴れ)権現谷

備中町役場で小屋のカギを借りて、小屋で少し落ち着いたら権現谷にむかった。

町役場で仕入れた情報によれば、現在の町民数3千人余り。

用瀬小屋は1泊500円。

電気、ガスコンロ、風呂、薪ストーブ完備。

素晴らしい。

権現についたのが午後2時くらい、ここは古代人の住居遺跡らしく石碑があったりするのだが、最初にやったルートなどはその石碑に立ってから始まるという大胆さ、他にもアブミスタートのルートがあったりしてビビった。

近くに巨大ガメがいるらしい。

12月27日

(晴れ) デッケン

デッケンとはドイツ語で不整合という意味らしい。

石灰岩のガバガバどっかぶりで、アプローチが近く暖かい。

一番気に入った。

12月28日

(晴れ) 杉田ロック

珍しくアプローチがやや長い(20分)。

見た目で悪そうなルートが多く、最低でも11dから。

12月29日

(晴れ) デッケン

12月30日

(晴れ) 王子ケ岳(ボルダー)

岡山市街から車で1時間くらい。

これまでずっと山奥にいたので「岡山」という気がなかなかしなかったのだが、岡山市街や海辺の町を通ってようやく「岡山」に居る実感が持てた。

王子ケ岳は花崗岩のボルダーエリア、本当に広くて確かに聖地かもしれないと思った。

課題も面白いものがたくさんある。

難しめの課題もいくつか登れてかなり楽しめた。

ただし指の皮はこの日の数時間だけでほとんど無くなってしまった。

この夜菊池さんと曽根さんはそれぞれ帰っていった。

私はこの日の夜の夜行バスが取れなかったので、姫路の李さんの実家に泊めてもらった。

12月31日

(晴れ・しぐれ) 北山公園(ボルダー)

朝、単身姫路を出て大阪駅にザックなどをデポし、靴とチョークだけ持って阪神電鉄の鈍行にのって北山公園に向かった。

ショーギ岩の看板課題を一撃で登れて、この日知り合った地元のクライマーにやたらと感心されてしまった。

やはり古くから登り込まれているエリアだけあって、課題の内容は面白いものばかりだった。

知り合った地元クライマーとメールのやりとりもしています。

1月1日

帰京

初日の出は月島駅から家に向かう途中で迎えた。

おしまい。

 

 

正月の北葛沢、大ハマリの巻

1998年12月29日~1月1日
関、平松、本郷、瀧島(記)

山は恐しい。

今回は気を緩めて山の神が怒り大ハマリ。

おかげで印象深いサバイバル敗退行となってしまった。

12月29日

晴れのち風雪

なんと急行アルプスのグリーン券(4000円)を買って、超快適。

ぐっすり眠って大町まで。

七倉で登山届けを提出して、舟窪小屋目指して、ひたすら登る。

小屋に着いた時は完全な吹雪。

静岡の二人パーティーと一緒。

冬期小屋の中にも雪が舞っていた。

12月30日

風雪

天気予報によると2~3日は天気は回復しそうにない。

残念だが針ノ木岳西尾根は諦めて、サブ計画の蓮華岳までの縦走に目標変更した。

北葛岳の到着の時点で、風雪強い場合は北葛東尾根を下る事を全員で確認した。

(計画書にはエスケープルートに北葛東尾根は入れてなかった。)

七倉岳―北葛岳間は行動できる限界に近いほどの風で左頬を凍傷にやられた。

決めたとおり蓮華岳の縦走を諦めて、北葛東尾根を下ることにする。

ほとんど人の入らない尾根のため、樹林帯のラッセルは覚悟していたが、4人パーティーなので比較的楽に下山できると考えていた。

東尾根に入ると、強風から開放されてルンルン気分で下り2250m付近で泊まる。

現在地の入念な確認もせず宴会に突入。

ガスを贅沢に使い、酒、食料を食いまくった。

(この時点で現在位置は既に2000m付近まで下っていると思い込んでいた。)

12月31日

小雪

うまくすれば午前中に下山できると思い出発。

視界はきかずに迷いながらも尾根をはずさずに下る。

1965mから真南に進み、1708mを過ぎて葛温泉目指し下る。1708mと思っていたピークは実はまだ1965mだった。

尾根の薮こぎがきつくなったので左の大白沢に下れば一直線で楽に葛温泉に下れると考え、雪崩れそうな斜面を下る。
間隔を空けて1人ずつ細心の注意を払って下った。
氷瀑を巻き、途中に水流も出てきた。
懸垂、飛び石の徒渉を何回か繰り返した。
とある滝で太郎君は、懸垂下降でどじって釜に落ちてしまう。

夕暮れ前、やばそうな滝の上でビバークを決めた。
この時点で落ち着いて考えて、北葛沢に誘い込まれたことを悟った。
終日の行動で疲れきっていた。

1月1日

小雪のち晴れ

悪いトラバースから懸垂下降、そして水流を目いっぱいジャンプで渡る。
下っても下っても、ゴールの橋は見えてこない。

次のカーブを曲がればきっと橋が見えると思うとことごとく裏切られた。
既に一ノ沢を過ぎていると思った場所は実はさらに上流のニノ沢さえ過ぎていなかった。
2時頃になり、通過不可能のゴルジュに行手をはばまれる。

覚悟を決めて右岸の尾根まで大高巻きをすることにする。

全員疲労が一気に出てきたようだ。

まさに生きるために力を振り絞って、雪面を登った。

登る途中で視界が開けて、正確な現在位置を知る事ができた。

まさに北葛沢に吸い込まれるように下ってしまい、沢を徘徊していたのだ。

思えば何回の懸垂下降、悪い高巻き、ジャンプ一番の徒渉をした事か。

息も絶え絶えで標高差400mを登り1388mの尾根上に出た時は、満月が晧晧と私たちを照らしていた。

ここからは大町の灯も見える。

そして、目指す北葛沢橋にも外灯が灯り、それを目指して一直線に下っていけばよかった。

満月のおかげでヘッドライトもほとんど必要がない。

急な雪面を慎重に下り、最後の最後はトンネルの上から車道へ懸垂で下りて締めくくるという、感動のフィナーレだった。

大町で生還の祝杯をあげた。

尖がった山ばかりが危険なのではない。

のっぺりした山も違った意味で危険なのだ。

2日目に負った顔の凍傷はいまだに消えないが、この凍傷以上に後半2日間のサバイバルはあまりに刺激的だった。

読図にはかなりの自信を持っていたが、それが現在地を誤った原因になってしまった。

山は高かろうが、低かろうが危険なのである。

そんな訳で大変有意義な敗退山行でした。

今年の夏にでも北葛沢を遡行しようと思う。

 

 

甲斐駒ケ岳 黄連谷左俣

1998年12月17日~19日
平良、増子(記)、小野寺

1998年12月16日

午後10:30西国分寺集合。

白州に17日の0:20着。

甲斐駒がこんなにも近かったことに改めて驚く。

久しぶりに見る郊外の夜空は満天の星空で明日の天気も良さそう。

但し、気温が高いのでアイスクライミングをやめて縦走にするべきではと早くも寝酒をのみながら弱音がでてしまった。

12月17日

(快晴)

8:30位に白州神社を出発。

あまりの雪の少なさに、5合目での水の確保が困難ではとの不安がよぎり、各自1.5~2Lの水を荷揚げすることにした(実際には雪があり、水の荷揚げは必要でなかったがうまい水を得ることが出来た)。

13:30位に五合目の小屋に到着。

日頃怠けて(増子)いたため、山を始めた頃のふがいない体力に逆戻りしており、特に太股・尻筋の衰えが大きく、アプローチの時間を余分に費やし、二人に迷惑をかけてしまった。

五合目には学生パーティ(?)が1パーティ入っているものの、他は入山しておらず優雅な山行となりそうである。

12月18日

小屋の中に張ったテントの中は湿度が少なく霜も降りず暖かく、平日のクライミングなればこその特権で、快適であった。

3:00起床、4:00まで食事、小屋の中での準備のため快適に準備出来4:30出発。

途中道を間違えながら下降し、黄連谷に5:30到着。

案の定F1、F2は氷結しておらず、高巻いて坊主の滝に到着。

ここも氷結は甘く滝中央部を水が流れているが、両サイドは氷結しているので何とか登れると判断し6:30クライミング開始。

平良がトップ、小野寺セカンド、増子ラストの順番で登る。

途中大滝下のなめ滝でザイルを出したが、他は2~3級の小滝のアイスクライミングであるためノーザイルで通過する。

さすがに平日とあってラッセルの後がなく難儀する。

どこまであがっても、足下から水の音がして、大滝の氷結が心配。

大滝に到着。

案の定氷結が甘く、水流が見える。

しかし、よく見ると要所は氷結しているため登ることにする。

平良がトップでチャレンジするが、アイスクライミングの鍛錬が足りず、2回テンションの末、増子と交代。

大滝は、高さ60mの滝であるため1ピッチで突破出来ないので、一段下でピッチを切ることに決めて取り付くが、いざ登ってみるとアイゼンの振動が響くような薄い氷であるため決死の思いで岩のスラブをトラバーして灌木でビレーをする。

氷よりもトラバースが悪くここが核心だなどとみんなで笑い合った。


大滝をバックに


大滝を登る平良(この後何かが)

最後の滝に来てようやく十分に氷結していた。

ここを小野寺がトップでチャレンジ、バイルが思うように決まらず首を傾げながら突破。

次に、増子、平良の順番で登る。

  最後の滝を登る小野寺

アイスクライミングを(3:30)に終了して8合目を目指すが、疲れている上に腰ぐらいのラッセルでなかなか進まず、あえぎながらようやく稜線に到着(5:00)、すっかり日が陰って暗くなってしまった。

予定では2:00には稜線にでて下降する予定であったが、全体的にラッセルが多く、3人であったため時間を費やしてしまった。

しかし、楽しかったことと無事終わったことを祝い握手を交わし、下降開始。

今日中に下山する予定であったが、5合目到着時点で音を上げて(特に増子)明日早朝に下山することをCLに懇願する。

入山していた人の携帯電話を借りてそれぞれの仕事先・友達・家庭に予定変更の知らせをし、心おきなく休むことにする。

予備食は、ほとんどないものと思っていたが雑炊・ラーメン(1個を3人で分ける)があり空腹を満たし、食後は鯣を肴に前日の残りの酒・ウイスキーをのみ満足する。

12月19日

それぞれの予定のために、4:00に起床し、6:00出発。

やはり十分に休養すると力がわいてくる。

昨日の内に下山していたらばどのような苦しさだったろうかと考えてみるとぞっとする。

途中入山してくる多数の人たちを見送りながら、改めて平日のクライミングの優雅さを実感した(あれだけ人が入ったらば氷がなくなるよなあ!:小野寺談)。

白州9:30?着。

 

 

ネパールヒマラヤ クスムカングル北稜

1998年4月15日~5月13日
荒井、森広(記)

4月15日

早朝にもかかわらず、雨の中を畠中君が羽田空港まで見送りにきてくれた。

羽田から関西空港へ飛び、上海を経てネパール・トリブバン空港に着いたのが日本時間の22:40、ビザを取り、ソナムさんに迎えられて、タメル街にあるチベットゲストハウスにチェックインする。

4月16日

晴。

午前中に登攣活動中の食料や一部の道具を買い出しする。

午後は街の中を適当に見物。

4月17日

9時過ぎにソナムさんから電話があり、明朝5:45に迎えに行く、ということであった。

高山病の特効薬、ダイアモックスを、薬屋を探し出して買う。

郵便局を探して手紙を出したり、行動食の追加分を買ったりして午前中は終わり、午後は荷物の整理とパッキングをする。

夕食は上平夫妻と近所の怪しい店に行く。

客引きの男は「わたなべ」と名乗っている。

4月18日

ソナムさんの手配で国内線にチェックインし、ルクラでの世話人であるこマ・ヌル・シェルパあての書類とお金と卵を持たされて、意外に待たずに7:25、小型機は飛び立った。

雲が多い。

ルクラに着くと、ニマ・ヌルにエベレストロッジに案内され、サーダーのアン・パサンと、コックのパサンを紹介された。

ニマ・ヌルの話では、咋日まで天気は良かったとのこと。

午前中は付近を探検し、午後は荷物をトレッキング用に整理する。

雲が増えて、午後には飛行機が飛べなくなった。

15時半くらいから雨になる。

4月19日

朝は快晴だが14時過ぎから雨になる。

8時出発の予定が遅れて9時発になる。

バグデインで昼食、ここは橋を架け替えている最中だ。

今日の行程は少々長く、モンジョまでで、荷物を持たない私たちでも到着は16:30になった。

ポーター2名が遅れて、暗くなっても到着しないので、先に着いたメンバーのうち、何人かが明日迎えに行くことになった。

4月20日

今日は朝から雲が多く、昼前から雨になる。

雨期が近づいて、天気は不安定になってきているようだった。

3600mのダーラカルカまではひたすら登る。

我々とコックのパサンが先頭を歩くが、パサンのペースは速く、道草を食っていると追いつかない。

真っ赤な花の咲いたシャクナゲの森を抜けると、残雪を見るようになる。

11:30にダーラカルカ着。

大きな岩小屋に石組の壁を作ったところで、テントは張らずにこの小屋を利用する。

ポーターのうち4人が風邪でダウンしてしまった。

昨日は一番元気だったおしゃれな少年も、熱があるらしく目を潤ませている。

風邪薬は持ってこなかったので、のど飴を渡すと、少しは良いようだった。

夕方この石小屋の持ち主の爺さんが上がってきた。

奥にいる登山隊に荷物を届けに行くところだという。

いかにも精悍で強そうだし、身のこなしも軽い。

4月21日

ポーター4人は風邪で倒れてしまったので村へ下ることになり、残り4人のポーターとパサンですぐに必要なものだけ持って、先にBCに入る。

朝には見えていたクスムカングルは、まもなく霧の中に消えた。

9:30出発。

ここからはゆっくりが原則、コックのパサンのペースに巻き込まれては行けないと思いながらも、結局パサンのペースで歩いてしまった。

12:30、BC着。

石組で囲った岩小屋を利用して、ベースキャンプとする。

広い谷の真ん中あたりにたくさんのテントがある。

イタリアの登山隊だということだった。

3人のポーターは14時頃着いて荷物を置くと、すぐに下って行った。

コックのパサンはいつも鼻歌を歌いながら仕事をしている。

霧の隙間からチラチラとクスムカングルが見える。

ルートを確認しようとするがわからない。

遅い昼食の後、小山のようなキヤシャール氷河の末端モレーンを回り込んで取り付きの方に行ってみる。

やっぱりよくわからなかったが、途中に大きな垂直の氷潅が見える。

17時過ぎに4人下りてくるのが見えた。

18:30には暗くなってくる。

夜には星空になった。

4月22日

5:44、クスムカングルに日が当たる。

タベ軽い頭痛があったが、朝にはすっかり消えている。

昨日いたキッチンボーイはモンジョに帰る。

午前中に取り付きとルートを確認に行く。

昼にはアン・パサンがポーターと共に登ってきた。

ポーターたちは荷物を置くとすぐに帰り、BCには我々とアン・パサン、パサンの4人だけになった。

昼にはまた霧に閉ざされ、霞が降りだした。

荒井さんは午後いっぱい寝ている。

よく寝る人だ。

タベは頭痛がかなりあるらしく、ダイアモックスを飲んでいたが、これなら大丈夫だろう。

4月23日

高曇りから霧になるが、雪は落ちてこなかった。

高度順化を兼ねて、登挙兵を4600mの取り付きにデポしに行く。

気が付くと谷の真ん中のたくさんのテントがなくなっている。

明日からBCを離れるので、パサンが青トウガラシ入りのモモ(餃子)を作ってくれた。

パサンの作る料理はどれもおいしいが、中でもこのモモは特別においしい。

夜には星が出た。

アン・パサンは我々の安全を祈願して?火をたき、お経を唱えていた。

省略型の「オンマニペメフム」でなく、ちゃんとしたお経だった。

4月24日

6:20出発。

モレーンを登り、10:20にはデポ地に着くが、同時に真っ暗になって雪が降りだしたので、少し下ったモレーン上に11:10テントを張って避難した。

一時避難のつもりが霰のような雪が激しくなる一方で、そのうち霙になって降り続き、もうここで泊まることにした。

ひっきりなしに落石の音が響き、雪崩も何度か出た。

夜になって星が出る。

朝はまあまあいいが、昼近くから雪になり、そのまま夕方まで止まない、という天気変化は、この後もずっと続いた。

4月25日

夜明け前には高曇りでそのうち雪が降りだしたが、7時頃、西から青空がやってきたので、8:15、まだ降っているうちに出発。

雪渓を渡って草付を登り、チムニーの下でザイルを出す。

チムニーからリッジに出て、しばらく歩き、大岩にぶつかって2ピッチ登ると、テントを張った跡がある。

4900mのこの場所にテントを張って、次のピッチにフイツクスしておこうとしたら、まもなく雪になり、気温が高いためずぶぬれになった。

雪は夕焼けの頃にやっと止んで、またも星空になる。

ナムチェやクンデの村の、明かりが見える。

BCのパサンとライトで交信する。

4月26日

曇りで始まる。

昨日のフイツクスを登って、ハングを右から回り込み、リッジに戻る。

残置ピンは少ないながらある。

ハーケン、ロックス、フレンズ、岩の突起などでプロテクションを取っていく。

9ピッチ登って、5100m付近で使えそうな所を整地して泊まる。

少し上に壁が見えているが、壁下まで行ってみても他にいい場所は見つからない。

少し頭痛があったが、甘いお茶を飲むと軽くなり、翌朝には解消している。

4月27日

夜の間に降った雪がかなり積もっていて、壁は真っ白だ。

雪を払い落としながら登ると、気温が高いのでビショビショになる。

気温が上がると雪崩の音も頻繁に聞こえる。

右寄りから取り付いて凹角まで登って荷上げし、左に回り込んで一段登るとバンドがあり、これを右にたどるといいビバークサイトになっている。

下降用らしいボルトも残っている。

今日はここまで。

夕方になるとまた軽い頭痛があり、甘いお茶を飲むと軽くなって、翌朝には解消している。

荒井さんは時々ダイアモックスを飲んでいる。

脈拍は二人とも、安静にしていても少し速い。

呼吸も速くなっている。

そして文句も一言、「毎日ダラダラ降るんじゃない!」

4月28日

すぐ上の四角い岩を右から回り込んでリッジに戻り、少し進むとザレの細いリッジになって第二の壁に続く。

正面は無理なので、少し右に寄ったところから空身で登る。

荒井さんがリードして、苦労してザイルを40m伸ばし、荷物を持ってフォローして確保点に着くなり、「森広さん、ごめん。これ以上登れない。ここから帰ろう。」

ルートは左のリッジとなっていて、ここからトラパースはできないから、一旦下って登り返すことになる。

確かに今日でもう5日目だし、下ることを考えると、頂上まで行くのが無理なことはわかる。

でも、この壁だけは解決しておきたい気がしたが、しょうがない。

左のリッジはスラブ状になって上に続き、2ピッチくらいで傾斜が落ちるようだ。

下ることには同意したが、「もう一度ここに釆よう」と思った。

またも雪になり、今朝のテン場に戻る。

4月29日

2回の懸垂下降で第一の壁を下り、アンザイレンして下る。

ハングの部分は登ったルートをクライムダウンして4900mの天場を過ぎたあたりで真っ暗になり、霰が降ってきた。

雷鳴のようなものも聞こえたので、少し戻って4900mのテン場に一時避難する。

雪が激しくなってきたので、テントを張ってしまおうとポールを伸ばしたら、ポールが雷に反応した。

ポールを放り出してテントを被って伏せる。

今朝は今までで一番いい天気だと思っていたのに。

まもなく間近で雷鳴がして、ついでに雪崩の音もする。

このまま3時間の我慢となった。

17時、やっと開放される。

4月30日

昨日の雪が凍っているので、アイゼンを付けて下る。

取り付きのチムニーを懸垂下降してデポ地に戻ると、もう雪はすっかり消えている。

取り付きの雪渓もずいぶん小さくなっている。

13:45にBCへ戻る。

アン・パサンが途中まで迎えに釆てくれて、荷物を運んでくれた。

久しぶりにパサンの作った昼食を食べ、パサンの鼻歌を聞いた。

その間にアン・パサンは荷物を干しにかかる。

気が付けばBCの後ろのルンゼに豪快な滝がかかり、そのうち今までなかった小川が流れ出す。

昨日の雪が水源らしい。

夕食は青トウガラシ入りのモモをリクエスト。

登れなかったけれど、無事に下りてきたお祝いに、ピザやケーキを焼いてくれた。

でも、灯油のバーナーと鍋だけで、どうやって焼いたのだろう?

5月1日

一日休養。

荒井さんがすっかりむくんでいるが、私も似たようなものなのだろう。

午前中は広い谷を歩き回っていたが、平らなところだけしか歩いていないのに、ひどく疲れる。

シェルパの男が一人、登ってきた。

10日後にヤクを連れてくるのだという。

午後、アン・パサンがモンジョまでポーターを呼びに行くついでに、一部の荷物を下ろすというので、ついでにトレッキングで使わないものをまとめてパッキングしていたら、全部持って下りてしまった。

コックのパサンは「彼は強いから大丈夫」とはいうけれど、それにしても荷物が多すぎる。

アン・パサンが出発した直後から霰が激しく降り出したので、ますます心配になる。

霰は雪に変わり、降り続いた。

5月2日

朝起きると、びっくりするはど白くなっている。

午前中は広い谷の中を歩き回っていた。

11時にBCへ戻ると、アン・パサンが戻ってきている。

13時に出発。

登ったときより多くの植物が動き出し、残雪はほとんどなくなっていた。

アン・パサンは重荷にもかかわらず、確実な足取りで下っていく。

「強いね」というと、「前はもっと強かったのだけど、年を取ってから膝が弱くなってね」と嘆いていた。

17時過ぎ、モンジョ着。

登るときにも泊まったロッジに泊まる。

アン・パサンは「今日は疲れたから」といって、早々と酔っぱらっている。

明日からは奥の村、夕一メまでトレッキングすることになった。

荒井さんはエベレストの方に行きたいようだったが、そっちは「日数が足りない」とのこと。

5月3日

アン・パサンと我々だけでナムチェに向かって出発。

BCまでの道と違って、こちらには観光客が多く、道も整備されて広い。

道ばたの草も木も、春。

12時にはナムチェに着いて、アン・パサンにロッジヘ案内された。

裏の山に登ると、山が見えるはずだが、あいにく天気が悪い。

明日の朝天気が良ければ行ってみることにして、今日はあきらめる。

午後には、通りに沿って立ち並ぶ店を冷やかしていたら、荒井さんが日本語のできるおばさんに捕まって、マフラーを2枚買うはめになった。

夕方、雨。

5月4日

今日は朝から天気が悪い。

エベレストを見るのはあきらめて、まっすぐターメ近くのアン・パサンの家に向かう。

その前に、手紙を出しに郵便局に立ち寄ったら、10時からだと言われたので、そのまま通過しようとしたら、5分前に開けてくれた。

雲が多く、雨も落ちてくる。

アン・パサンの足取りはいつになく速い。

白いシャクナゲの咲く道を、12時にはアン・パサンの家に着き、2階に案内される。

学校から10、9、7才になるアン・パサンの子供たちが帰ってきて、さっそく家の手伝いをする。

15時過ぎ、チベット人のドルチェという男がやってきて、アン・パサンはふかしジャガイモとチャンでもてなす。

私たちもふかしジャガイモをごちそうになった。

ドルチェはナムチェで商売をして、帰る途中で、アン・パサンとは親しい間柄なのだった。

今日はターメまで行く予定で、アン・パサンの上の男の子二人が付いていった。

アン・パサンには少なくともこの上に独立した息子が二人いる。

荒井さんが「奥さんは?」と何度か尋ねたが、それには答えなかった。

暗くなる頃、次男がゾッキョを連れて帰ってくる。

次男はナムチェに家があり、明日はターメのセカンドハウスへゾッキョを連れていくという。

今日はアン・パサンがコックを兼ねる。

荒井さん日く「パサンより腕がいい」。

パサンの料理は外国人用にアレンジされているが、アン・パサンのは自分たちが食べてきた料理なのだ。

5月5目

早朝、タムセルクとクスムカングルが大きく見えていたが、まもなく曇って見えなくなってしまった。

今日はアン・パサンの家からターメを往復するだけで、ゆっくり行っても2時間程度なので、出発も急がない。

ゾッキョを連れた次男と一緒に出かけるが、途中の畑にマウンテンゴートが群れで出てきていたので、山の方に追い払う。

ゴンパ(お寺)を見て、チョー・ユーが見えるところから谷の奥の雲を眺めて、アン・パサンの家に戻ると13:25。

今回、「見る山」にはとことん恵まれなかった。

今日は学校が休みなので、子供たちは水汲みや掃除をして働きながら遊んでいた。

縄跳びなどして一緒に遊ぶ。

今夜もアン・パサンが腕を振るい、とっておきのご馳走、シャクパのスープやカレーなど、食べきれないはど作ってくれる。

残しては悪いなと思っても、とても食べきれない。

子供たちも料理を運んだり、チャンを注いでくれたりと、一人前にもてなしてくれる。

食事の後、本を読んでいたら、好奇心いっぱいにのぞきこむので、英語とネパール語とシェノレバ語をまぜて説明する。

本といっても「地球の歩き方」とか、暇つぶしの文庫本しかなかったが、絵や写真のページを端からめくって解説した。

5月6日

夜に大雨が降った。

朝食にジャガイモをすり下ろして炊いたチャパティを作ってくれたが、アン・パサンの創作なのだろうか。

おいしかった。

昼近くに家を出て、途中アン・パサンの次男の嫁さんの茶店でモモをごちそうになり、モンジョヘ。

ここでパサンと再会し、アン・パサンはポーターを捜しに出かける。

天候はますます不安定になり、霧のような雨が降ってくる。

BCから下った頃はまだ乾いた感じだったが、今は湿って土挨も立たない。

5月7日

アン・パサンはポーターをもう一人探してくるというので、パサンと一緒に出発する。

パサンのペースは速いし、私はいろいろな草が出てきているのでつい道草を食って遅れることになる。

バグデインで昼食にしようとする頃雨。

一時はかなり激しかった。

弱くなった雨の中を歩いて、16:20ルクラに着いたときにはすっかり上がっていた。

この天気で今日は飛行機が飛ばなかったので、ルクラにはいつになく人が多い。

暇にしていたらBen Davisというニュージーランド生まれのイスラエル人と話がはずんだ。

軍隊を辞めてフリーになって、アジアを巡っている23才。

我々のフライト予定は9日、別に急がないが、7日のフライトがキャンセルになったので、8日の席は満杯で割り込めない、と、ニマ・ヌルさんは聞かないのに説明した。

Benはカトマンドゥヘの飛行機の便がとれないので、ヘリでジリに飛んで、ジリからバスかプライベート・カーでカトマンドゥに戻ることになった。

「バスの達ちゃんはクレイジーで怖いから、飛行機で帰りたい!」

と譲らなかったBenは、最後にはニマ・ヌルのこの案に同意した。

ニマ・ヌルはこうした交渉で、今日一日忙しく動き回っていた。

5月8日

その辺にいた人の話では、今日は18便が飛ぶ予定だという。

昨日の分も運んでしまおうというわけか。

今日は十分時間があるから、朝のうちにガチャ分けをして、パッキングを終えたら、飛行場のまわりをうろうろしていた。

のんびりしていたら、ニマ・ヌルさんがやってきて、席が空いたからすぐ支度するように、という。

どうせ明日だからと、生活用具などは散らかしたままだったので、急いでテントに戻ろうとすると、アン・パサンが手際よくパッキングして持ってきてくれた。

すぐにチェックイン。

なんとも慌ただしく、あっけないお別れだ。

パサンはどこかに行っていて、このまま会えないかと思っていると、しばらくしてパサンがやってきた。

12時には離陸。

窓側の席に座ったのに、見えるのは雲の山ばかり。

13時過ぎにはカトマンドゥのホテルにチェックインして、シャワーを浴びる。

カトマンドゥは暑い。

14:30を過ぎて、近くのヤク・レストランで遅い昼食。

夜は「渡辺」の店へいく。

5月9日

街で見物がてらお土産を買ったりして過ごす。

荒井さんの希望でクスムカングルのTシャツを作る。

昼はラサ・レストランに行くが、それほどおいしくなく、ウェイターがおしゃべりだ。

午後は一人でニューロード方面に出かけ、お茶や香辛料などを買う。

夕食にKC’Sでステーキを食べたら、これが良くなかったらしく、夜から腹の調子が悪い。

5月10日

朝になると、荒井さんもおかしいという。

原因は咋日のKC’Sに間違いない。

インドラチョークを見て、昼前にはホテルに戻る。

昼食を食べる気にはならない。

荒井さんは一人で食べに行った。

荒井さんは帰ってくると、レストランでルクラヘ行く飛行機で一緒だった日本人と会って、明日スワヤンブナートへ行く約束をした、という。

体調は、夕方には回復したので、夕食はヤク・レストランに食べに行く。

ここはいつもおいしく、おすすめの店だ。

5月11日

曇り。

大久保さんと待ち合わせてスワヤンブナートヘ。

何だか知らないけど、お祭りだ。

人でごった返している道を、登ったり下りたり、流れに逆らわないで一巡したら、雨が降ってきた。

かなり激しいので近くの茶店に避難し、止むのを待った。

雨期近し、なのだろうか。

帰り道でまた降ってきて、かなり濡れてしまった。

午後になってほんとうに上がった。

夕食はまた大久保さんと待ち合わせて渡辺の店に行ったが、ひと味足りない。

ここは同じ料理でも出来にむらがあって、明らかに失敗と思えることもあった。

変な店だ。

5月12日

今日が最後の日だと思って街を歩き回るが、疲れてしまった。

2時間ぐらいが限度だ。

20:45、ソナムさんと待ち合わせて空港へ行く。

ソナムさんは実は山が大好きで、毎年日本の山にも登っているが、今年はバイク事故で足の怪我が直りきっていないので行けないかも…という。

冬の槍ヶ岳にも登ったそうだ。

出身はルクラの近くだそうだ。

22:20には出発ロビーに入る。

5月13日

長く待たされるものだと思っていたら、定刻の出発で、かえって驚いた。

明るくなってからも外は雲の海で、日本も梅雨前線におおわれる季節になってきたようだ。

10:50関西空港着。

 

 

谷川岳 一ノ倉沢 一・ニノ沢中間稜

1998年3月21~22日
荒井・森廣(記)

3月21日

夜半に土合に着いた時は霙が降っていたが、明るくなると晴れ間も見える。

南稜目指して一ノ倉沢をつめていると、上の方で妙な音がした。

見上げると、滝沢から雪煙が広がりながら落ちてくる。

逃げた。

怖いから一番取り付きの近い一・ニノ沢中間稜へ、戻って取り付く。

2月に登ってかなり苦労した記憶があるが、今日の雪は締まって安定しており、一足早く五月の山の感覚だ。

懸垂下降してからスタカットで登っても、駆け上がるような勢いで、先行パーティにもまもなく追いついた。

核心の雪綾では2パーティ待ちになる。

時刻も早いし、天気も曇りだがすぐに崩れる気配はなく、視界も良い。

雪稜の雪も安定していて、拍子抜けするはど快適だった。

東尾根の第一岩峰には先行パーティが張り付いていて、さらに1パーティが待っていたので、めんどくさいから巻いてしまった。

国境稜線へはしっかりした踏み跡に従って、雪庇の切れ目を越えて出る。

出口が少し登りにくい。

17時、下ることもできる時刻だが、肩の小屋に泊まる。

ビバークの予定でシュラフカバーだけのはずが、荒井さんはしっかりシュラフを持っていた。

小屋の中で食べ物も水もあるので気楽だが、やはり寒い。

荒井さんはさっさと熟睡している。

3月22日

曇~晴

ホワイトアウトで西黒尾根の下降点を見つけることができず、天神平に下ることにする。

こちらのルートは大勢登ってくるので舗装道路になっている。

少し下ると視界が良くなり、まもなく晴れてきた。

けれども谷川岳の山項は変わらず雲の中。

天神平からは歩いて下りたかったが、またも通が見つからず、仕方なくロープウェイで下る。

 

 

八ヶ岳 横岳西壁石尊稜

1998年2月26日
荒井・森広(記)

曇~雪~曇

6:20くらいに美濃戸山荘下の駐車場から歩き出す。

北沢に入るとモナカ雪のラッセルになり、進まないので、最初は日ノ岳稜を登る予定だったが、一番近い石尊凌に変更した。

スラブ状の取り付きの壁を登り、安定した岩稜から雪稜になる。

アプローチでは咋日降った雪はほとんど積もっていなかったが、登るにつれて新雪が増えてきた。

上部岩壁の基部では不安定な積雪がかなりあったので、トラパースして縦走路に出るのは危険に感じた。

上部岩壁はすべてガバホールドで易しく、不安は全くなかったが、雪壁になってから少し登ると、アイゼンの爪で硬い旧雪を掟えることができなくなった。

「感じ悪いな」

と思いながらも5mほど上に見える岩を目指してさらに登ると、スリップしたような感覚があって、雪が動き出した。

自力では止められずに、ザイルにぶら下がって止まった。

易しいからといって9ミリ1本で登っていたのだが、止まってよかった。

自分で雪崩を出したのは初めてで、これで危ない雪の感触がわかったような気がする。

もう1本のザイルで確保してもらって登り返し、そのまま雪壁を登る。

かなり広範囲の雪が落ちたようで、硬い旧雪しか残っていないからこの場はもう安心だ。

確保支点を作ろうとして首にかけていたシェリンゲがなくなっているのに初めて気付いた。

やはりあわてていたのかもしれない。

縦走路に出ても、踏み跡は全く残っていないし、ホワイトアウトしてしまって、ルートがわからず、時間がかかる。

雪面をトラパースしなければならないところが出てきたので、危ないからザイルで確保してトラパースしたら、期待に応えて再び雪崩がおきた。

何とか見えるうちに地蔵尾根の下降点までたどり着いたが、まもなく暗くなり、迷いながら下降する。

下ると新雪は浅くなり、行者小屋付近にははとんどない。

時刻は18:40になっていた。