トリノ小屋 今ツアー中、唯一のイタリア体験

1999年8月3日(火)
桜井、中嶋(記)

トリノ小屋に入っていってまずチェックイン、予約はあるかと聞かれ桜井さんが「無い」

と答えると、受け付けのお兄ちゃんは「No problem!」

と軽いノリと大きなアクションで答えてくれた。

払いはリラが基本らしく、当然といえば当然なのだがこれでイタリアを実感した。

フランへの単純な計算式があるらしく紙に書いて一生懸命説明してくれて、出したフランを「ウーノ、ドゥーモ、トゥーレ、カトロ、チンクエ…」とリズミカルに一生懸命数えていた。

バーでビールを飲んでいると、さっきのお兄ちゃんを含む従業員らしき人達がとにかくみんな、ひたすら早口(に聞こえる)でしゃべりまくってじゃれたりしている。

これがイタリアかと酔った頭でひそかに感激していた。

トリノ小屋からの景色は素晴らしく、南を見るとモンテ・ビアンコやモディとそれらに突き上げるプトレイ稜やブレンバ側稜が見え、北を見れば明日登ろうと思っているダン
デュ ジュアンが見える。

でもイタリア側のアオスタの里の風景もとても素敵で、いつかは車で気ままに回ってみたいなあと思いながら、小屋のテラスから随分長い時間眺めていた。

夕食の時間をはっきり聞いていなくて、せいぜい夕方6時くらいだろうと思っていたらなんと8時からだった。

7時半くらいにはかなり良い匂いがしてくるのだが、学食のような食堂では入り口に宿泊客が並んでいるのを気にもせず、食堂のテーブルでまずは従業員が皆で夕食を食べていた。

かといって、並んでいる客がイライラしているかというとまったくそんなことは無く、誰もが楽しそうに一生懸命に会話を楽しんでいた。

ほかにもチェスをやったり山のトポをみて議論していたり、なにしろ一生懸命に自分の事をやって有意義に過ごしている感じなのだ。

待ちに待った食事はとってもおいしくて事実上おかわり自由、従業員との交渉次第でなんでも可能な感じだった。

ワインもおいしかったし、まわりの宿泊客(全員登山者)の様子を見ていても楽しかった。

食事の時間帯は日本とヨーロッパの価値観の違いを一番強く感じた。

さて、翌日無事にジュアンを登って小屋に戻ったのが13:00頃、荒天のためゴンドラが動いているか気になる。

小屋のおばちゃんに桜井さんがとりあえず「英語はなせるかい?」

と尋ねたところ、片足をイスにかけその上に肘を置いて、自信に満ちた笑みを浮かべて

「NO!」

と答えてくれた。

客のおじちゃんが通訳してくれたが、いろいろ話したあげくよくわからなかった。
しかたが無いのでエルブロンネルの駅まで行くと、案の定動いていなかった。

整備のお兄ちゃんをつかまえて「シャモニに帰らせてくれ~」

と主張しておいて、後はやることもないので駅の茶店でビールを飲んでそこらの雑誌を見たり、何故かエスキモー展をやっている駅をうろうろしたりして暇をつぶした。

2時間くらい待ってようやく動かしてくれて、他にフランス人クライマー2人と我々の計4人のためにすべてのゴンドラが動きはじめた。

風が強くてゴンドラがえらい揺れてなかなか怖かった。

ガスの切れ間からたまーにジュアンとかカピュサンが見えてかっこよかった。

また、こんな嵐の中行動している人がけっこういてびびった。

こうして無事シャモニにもどることが出来たのでした。

 

 

モンブラン山群 ダン・デュ・ジュアン一般ルート

1999年8月3~4日
中嶋、櫻井(記)

天候不順、氷河の状態、メンバーそれぞれの体調などを考えてビバークを必要とするようなルートはもうできないと判断していた。

しかし、シャモニー滞在の最後に、ある程度手応えのあるところに行っておきたいという気持ちも強くあった。

トリノ小屋はミディのケーブルカーからゴンドラに乗り継ぎエルブロンネルというイタリア国境のケーブル駅にある。

モンブランとグランドジョラスをつなぐ尾根の上標高約3400mに建っている。

このトリノ小屋をベースに2日間でグランカピサンとジュアンのふたつを登ろうという計画をたてた。

8月3日 シャモニーからトリノ小屋

朝5:00まだ暗いアパートの窓からのシャモニー針峰群はどんよりとした雲の中にある。

まだ寝ている人たちを起こさないように気使いながらキッチンで立ったまま堅くなったバゲットにスープを浸してかじって飲み込む。

ミディのロープウェイ駅までは歩いて10分かからない。

早朝の石畳の道には午後の雑踏では感じられないすがすがしさがある。

駅に着くとクライマーが20人くらい出発待ちをしている。

天気予報が悪いので、いつもと比べてとても少ない。

エルブロンネルまでのチケットを求めようとすると、悪天でミディーから先のゴンドラの予定が立っていないため、チケットは発売できないと断られる。

そうではないか、という予想があたってしまい駅の入り口の階段でぼんやりとしていると、今度は雨が降ってきた。

見知らぬフランスのクライマーと「この天気じゃねえ」と目で話をする。

「とりあえず、出直そう」ということで、アパートに戻る。

昼近くなると青空が戻りアパートからモンブラン方面も見えてきた。

残り日数もなくどうなるかわからないが、ワンチャンスに賭けてトリノ小屋まで入っておこう、と気をとりなおして昼過ぎにまた出発する。

この間の気持ちの整理とモチベーションの維持にはエネルギーが必要で、しかも繊細なこわれやすいものだった。

今度は順調にエルブロンネルまで乗り継ぐことができた。

ゴンドラの中からはモンブラン山群の主だった山をすべて見ることができた。

残り1日となった翌日のルートをカピサンとジュアンのうちどちらにするかを決めていなかったが、ここでジュアンにすることに一致した。

カピサンは技術的にはジュアンより上でムーブは楽しめるはずだが、このゴンドラから見るといかにもモンブランタキュールの前衛峰であり山としての存在感に欠ける。

一方のジュアンは支稜の上にどっしりと根を張り、青空をバックに尖塔を突き出し堂々いかにも「巨人の歯」である。

アルプスらしい、高所の山旅気分を優先することにした。

駅の展望台で展望を十分楽しみ、無料の双眼鏡でジュアンのルートをしっかり下見し、ここまでいっしょに来た妻と別れる。

トリノ小屋までは安全な雪面を200mほど歩けばいい。

ちなみにこの駅の出口の扉には

「ここから先は高山の世界であり十分な準備をし、リスクを認識した者だけがこの扉を開けることができる」

といった趣旨の警告が書かれている。

気持ちのよい、自己責任の表現だった。

トリノ小屋はイタリアだった。

従業員は皆それぞれ個性的で明るく、かたことの会話でも楽しくなってくる。

客は皆クライマでそれぞれ翌日のルートを考えている。

イタリア人、フランス人、スイス人…アジアからは我々2人だけだった。

盛り放題、お代わり放題の夕食もおいしく、楽しかった。

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翌朝、相部屋になったスイス人パーティの目覚ましが鳴った。

4:00前、ひとりが窓の外をのぞいている。

「How’s the weather?」私が聞くと

「Good」と短く返ってきた。

食堂では、若い従業員がまだ眠い目をしながら給仕をしている。

まだ高校生かもしれない、おどおどしている憎めないやつだ。

8月4日

5:00小屋発

ジュアンには不要なものを小屋の乾燥室にデポし、出発。

南の空にはやや厚い雲があるが、モンブラン山群は薄雲がすこしある程度だ。

ヘッドランプをつけて行く。

アイゼンが気持ち良く効く。

アプローチは一度ジュアンのコルから下り岩峰を右から巻き込みながら、ジュアンの支稜に取り付く。

同じ方面への5パーティーほども適度にちらばり、気分は穏やかだ。

支稜のとりつきは斧形をした雪面をシュルンドに注意しながらまっすぐ上がり、支稜の肩に出てから今度は右にガラガラの岩稜を上がっていく。

岩稜には残雪やベルグラも時々あらわれる。

ロープは使わなかったが短いⅣ級程度のムーブは出てくる。

7:30 ジュアンの基部

青空がずいぶんと少なくなって、南の雲が厚みを増してきた。

谷からも雲が湧き上がってどうみても悪化の兆候だ。

ここはもう4000m近いが、慎重にゆっくりとアプローチしたためか、頭痛などは起きていない。

モンブランを速攻してきた中嶋はもちろん体調万全だ。

あきらめるにはまだもったいない天候だ。

プラ靴とアイゼン、ピッケル、ストックをデポしロープをつける。

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8:00 登攀開始

ルートは本峰から40cmほど離れて立つ岩のトラバースを10mほどしたあと、回り込んで本峰に立ち少し上ると、立派な?形の鉄のアンカーに出合う。

このルートは要所に必ずこの鉄ペグが打たれている。

2ピッチ目、さらに左上トラバースをすると、ガラガラのクーロアールにでるのでこれを直上する。

残雪のテラスに出てピッチを切る。

3ピッチ目、有名な残置ロープがここからスラブに続く。

このころになるとジュアンは完全に雲の中、雪まじりの東風がやや強く、岩も冷たく手袋のなかの手の感覚が無く、岩に叩きつけたり脇にはさんだりして回復させる。

毛の靴下を履いてのフラットソールだったがつま先も冷えてジンジンしてくる。

こんなはずじゃなかった、という思いが強くしてくるが、あと数ピッチ、雷さえこなければなんとかなるだろう。

「雷が聞こえたら、すぐ下ろう」

櫻井 と話して、登攀続行。

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条件がよければ楽しめそうなクラックも、太いフィックス頼りにゴボウで登る。

岩も濡れてフリクションも悪くなってきた。

4ピッチ目も同じスラブ。

後半はオープンブック状なところも出てきてフィックスをつかむと体が岩から離れてバランスがとれず苦労した。

風は強く、フィックスやジャージズボンにもエビの尻尾が出来始める。

フィックスを握ると手袋にべったり霜が着く。

5ピッチ目、ルートはスラブからリッジラインになり風下にあるテラスでは一息つける。

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リッジをしばらくいくと遭難プレートが出てきてすぐに南西ピークに達した。

北東ピークにはガスに霞んだマリア像が見える。

ほとんど吹雪のなか、頂上にいたのは3分程度でマリア像に触るのも考えられずすぐに懸垂下降に移る。

3ピッチの懸垂下降で基部の高さまで降りたが、最後の回収でロープがエッジをまたいで引っかかってしまった。

これの回収に登り返し、トラバースをして基部に戻る。

このトラバースは戻るときのほうが難しい。

11:30ジュアンの基部

デポした靴やアイゼンの上にはうっすら雪が積もっていた。

下り始め主稜から支稜に移ればもう風は強くない。

あとは来た道を慎重にたどるだけだ。

ここジュアン氷河の上部は穏やかでクレバスの心配もない。

13:00トリノ小屋

風雨で心配だったゴンドラの運転もなんとか再開されて、その日のうちにアパートにもどることができた。

山旅気分が、上部ではかなり冬季登攀風になってしまった。

よく言われる「5月の北アルプスと同じ」をまた実感した。

ちなみに前後にいたパーティは皆、ガスがかかった時点で引き返しトリノ小屋からこの方面に出たパーティで粘ったのは我々だけだった。

「遠いアジアから来たジャポネは、こんな天気なのにガツガツしているねえ」

とどこかで言われていそうだ。

 

 

赤い針峰群 – シャペル・ド・ラ・グリエール

1999年7月30日
森広(記)、中嶋

アンデックスまでロープウエイとリフトを乗り継いで上がり、ランデックスの下をトラバースする踏み跡をたどって取り付きへ。

ランデックスにも人が多かったが、こっちも順番待ちになる。

ミディと異なり、岩は日本の山のように細かく割れ目の入ったものだが脆くはない。

先行3人パーティの中の一人が日本語で話しかけてくる。

凹角から2ピッチでリッジへ出て、岩峰基部までおおむねリッジをたどり、踏み跡を歩いて岩峰を右から回り、凹角から再びリッジへ出る。

対岸の山が見えれば、きっともっと楽しかったはずだが、あいにく今日は霧の中で何も見えない。

終了点のピークは岩の突起で、しっかりしたアンカーがあり、10m懸垂下降すると広場に下りる。

ランデックスの肩を経てリフトの終点に戻る。

雪合戦にはしゃいでいる3人組とか、短パンでシリセードしている奴とか、変なのがたくさん出ている。

リフトが止まってしまったので、雨が降ってきたせいかと思っていたが、そうではなくてお客が少ないときはある程度お客を溜めてから動かすことにしているらしい。

 

 

ミディ~モンブラン往復

1999年7月27日
森広(記)、中嶋

2時半に目を覚まして外を見ると、すでに遙か遠くまで光の列が続いていた。

我々は4時に歩き出す。

ずっと天気が続いていたので、氷河の上もしっかり道になっている。

モン・ブラン・デュ・タキュルの急な氷河にはいくつものクレバスがあいているが、トレースはそれを避けながら登っている。

3ヶ所ほどクレバスを渡って5時間がかりで急斜面を抜ける。

モン・モディのコルまでもう一段急斜面を登ると、あとは緩やかな、大きな斜面となる。

歩いても歩いてもただ真っ白な斜面が続いているだけだ。

雲が高くなって、いつのまにかマッターホルンも見えなくなっている。

このあたりでモンブランだけが飛び抜けて高いのだということも、頂上に着くまで感じるゆとりはなかった。

山頂は細長い雪稜になっていて、ここまできて初めて見るイタリア側は壁になって落ち込んでいる。

登りは頂上までコンテで歩いてきたが、下りはモディのコルまではザイルなしで歩くことにする。

モディのコルあたりから雪が柔らかくなり、アイゼンに団子ができ始める。

タキュルの急斜面のクレバスは飛び降りる。

急斜面を下りきると、気が抜けたせいかすっかりばてている。

テントまでのごく緩やかな登りが異常に辛かった。

テントに戻ると、まもなく雨が落ちてきた。

雨はまもなく雪に変わり、雷雪となって翌朝まで続き、積雪は30cm程度。

 

 

ミディ南壁 レビュファルート

1999年7月26日(月)
森広、中嶋(記)

シャモニには前日の夕方についたばかりだったので、まだ何の準備もしていなかった。

アパートを9:00に出て、スネルスポーツで保険を買った後森広さんと合流、食糧を買い出ししてからミディへ向かうロープウェーの駅へ向かった。

すごい混雑ぶりで切符を買うと整理券を渡されて1時間待った。

暇だからウンコをしたりサンドイッチを食べたり記録を書いたりした。

日本人観光客の多さにはまいった。

ロープウェーは往復約4000円、高いだけあってその威力はやはりすごい。

ときどき大きく揺れるたびに子供達が騒ぐのがとてもかわいらしい。

ミディの駅では、sortieの表示にしたがって行くとおもむろに氷のトンネルになり、それを抜けるとナイフリッジがはじまっている。

早速準備をして、右下の方にテント村が見えたのでそれを目指して下っていく。

気が付くと右上の方に写真で何回も眺めたミディの南壁があった。

何パーティかが取り付いていて大きさが分かったが、思っていたよりも小さかった。

登ってみると結構大きかったが。

テントを張ってすぐに取り付きに向かった。

1ピッチ目は正規のラインよりも右のラインから取り付いてしまい、これが5.9位の感じで森広さんを消耗させてしまった。

全8か9ピッチくらいですべて中嶋リード。

残置はビレーポイント以外はとても少なくて、フレンズ・エイリアンが有効、岩はカチカチ。

きれいな壁はやっぱりきれいに使った方がいい。

核心はほとんど下部に集中しているが、上部も中だるみはまったくなくて充実している。

チムニーを抜けるとほぼ終了。

エルブロンネル行きのゴンドラが真横を通過するという変なシチュエーション。

下降支点はとてもしっかりしていて5回の懸垂下降で取り付きへ戻ることが出来る。

登って降りてくるまでで、大体5時間くらいかかったと思う。

途中クラックには木のくさびが残っていたりして面白かった。

日本と違って木や草が生えていないのが不思議に思えてしまう。

夜はスーパーで買った良く分からない酒を飲んだが、翌日のモンブランに備えて早めに寝た。

 

 

ヨーロッパ紀行 – Two weeks in Chamonix

1999年7月24日~8月6日
中嶋(記)

7月24日(土)成田~ジュネーブ
7月25日(日)ジュネーブ~シャモニ
7月26日(月)ミディ南壁 レビュファルート
7月27日(火)ミディ~モンブラン(4808m) 往復
7月28日(水)ミディ~シャモニ
7月29日(木)休養日
7月30日(金)Chapel de la Griere (赤い針峰群)
7月31日(土)Col de Balme
8月1日(日)休養日
8月2日(月)Col de Montets
8月3日(火)トリノ小屋
8月4日(水)ダン デュ ジュアン(4013m)
8月5日(木)休養日
8月6日(金)シャモニ~ジュネーヴ~成田

<出発>
成田~ブリュッセル~ジュネーブ~シャモニ
7月24日(土)

成田からブリュッセルの12時間はあっという間だった。

隣の席のちいさな女学生に話しかけようかどうか考えているうちについてしまった。

彼女は獨協大ドイツ語学科の3年生で、これから単身1ヶ月間の語学留学にいく途中だという。

ブリュッセルでは乗り換えだけだから入国ゲートを通る必要はないのだけど、彼女は間違えて入国ゲートをくぐって即再度出国という面白い事をやっていたのでそれをきっかけに話がはじまった。

飛行機のなかではほとんど寝っぱなしだったので話しかけられなかったが、ブリュッセルでの乗り換え待ち時間はのんびり話をした。

なかなかかわいい娘だった気がする。

ジュネーブ行きの飛行機からはこれから登りまくるモンブラン山群がよく見え、一人で興奮してしまった。

ブリュッセルまでは日本人が多かったが、この便からはもう日本人はいないのでようやく海外に来ている実感というか頼りなさが出てきた。

ジュネーブの町の中心に出て寝床を探すが、思っていたより人がたくさんいていい場所がない。

遅くまで駅の近くは黒人さんがたくさんいて少し恐いので、川っぺりの公園までとりあえずやってきた。

公園のベンチはよく眠れるかどうかは別として、とりあえずトラブルは避けられそうに思えた。

たまに花火が上がったりするのは、この日が祭か何かだからだろうか?12時近くになっても人通りがまったく絶えない。

夜景を眺めていたがいい加減眠くなってきたのでシュラフ(注:寝袋)に潜った。

7月25日(日)

当然朝は早めに目が覚めてしまい、6:00に起きてしまった。

朝は意外と寒い。

人通りが増える前にシュラフをたたんで散歩に出かけた。

川の対岸を重点的に散歩して写真もたくさん撮った。

どこの角を曲がっても予想できなかった景色が現れるので思わすシヤッターを切ってしまう。

写真だけ見てもこの気持ちは伝わらないのだろうな
マクドナルドではバリューセットがなんと10SF(800円以上)! 日本より物価の高い国は初めてだったのでかなり躊躇したが、空腹には勝てなかった。

普通の国鉄でレマン湖の上を通ってマルティーニまで。

ここで乗り換えないで終点まで行ってしまうとイタリアのミラノに着くらしい。

マルティーニでは高いけどおいしい昼食を食べて、登山電車に乗り換えてシャモニまで。

<いよいよ登攀開始>
ミディ南壁 レビュファルート
7月26日(月)

ロープウェーは往復約4000円、高いだけあってやはりすごい。

ときどき大きく揺れるたびに子供達が騒ぐのがとてもかわいらしい。

ミディの駅では、sortie(注:フランス語選択の人は知っています。出口の意)の表示にしたがって行くとおもむろに氷のトンネルになり、それを抜けると雪のナイフリッジがはじまっている。

早速準備をして、右下の方にテント村が見えたのでそれを目指して下っていく。

気が付くと右上の方に写真で何回も眺めたミディ針峰の南壁があった。

何パーティかがすでに登っていて大きさが分かったが、思っていたよりも小さかった。

この日実際に登ってみると結構大きかったが。

<一応ヨーロッパの最高峰>
ミディ~モンブラン(4808m) 往復
7月27日(火)

ミディのコル(注:テントを張った所の地名、コルは峠の意。

この夜-10度より下がった)での夜はとても寒くて、0時すぎからはほとんど眠れなかった。

2:00頃に外を見ると最初に越える山の上のほうまでヘッドランプの明かりが見える。

あまり出遅れるのも嫌なので4:00には出発。

5時間ほどひたすら登ってようやくモンブランが見えるのだが、ここからがやはり、見えているだけにつらい。

モンブラン頂上11:40。

ここより高いところが無くなったので頂上であることは間違いない。

遅めの時刻だったためか意外と人は少なくて、いる間で6、7人くらい。

周囲の山と比べてダントツに高いので気分がいい。

はじめてみるイタリアもなかなか。

南風とともに天候が徐々に悪化しているので、あまりのんびりしないで下降に入る。

来た道を帰るだけなのだが、頂上を踏んで集中力が切れているだけにつらい。

雲行きはどんどん怪しくなっていく。

行きに通過したクレバス(注:氷河のでっかい割れ目)はさらに悪くなっているし、セラック(注:氷塔)も何カ所か崩壊していて来た道を塞いでいる。

こっちからのルートが一般ルートでない事が良く分かった。

バテバテになってミディのコルに戻ったのは夕方6:00近かった。

7:00位から雷雨になり、みぞれから雪に変わっていった。

雷はすぐ近くに一晩中落ちていた。

この夜少なくとも20cmは積もった。

テントは昔の夏用のものでフライ無し、シュラフは夏用のごく薄いものだったので、真夏のわりにはなかなか厳しい夜だった。

<町に戻る>
7月28日(水)

雪が止んだのを見計らってミディの駅へ戻る。

最後の登りがきつかったが、展望台から少年が「ボンジュール!」

と叫んでくれるので立ち休んでいるわけにもいかず、必要以上に頑張ってしまった。

トンネルにはいる前に少年は「Au revoir!」と言ってくれたのでこちらも「Au revoir!」、単なる挨拶とはいえ嬉しいものだ。

ミディの駅では文化の象徴カフェをシルブプレした。

観光客が殆どいないのはほっとした。

こんな悪天の日でも来ているのは、日本人をはじめとするフランス人以外の観光客がほとんどだ。

下におりたらわき目もふらずにアパートに行った。

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<休養日、町での生活>
7月29日(木)

洗濯と道具干しをしてから、町に水着を買いにいく。

サイズの表記がまったく分からないので、水着コーナーに店のお兄ちゃんを連れていって、おなかを見せてジャストサイズのものをゲットした。(約1000円)

昼過ぎからプールに行った。

まず、更衣室が男女に分かれていない。

ここが第一関門で迷ってしまうところだ。

次にロッカー、これも日本にない仕組みで、その場でロッカー番号と、自分で考えた暗証番号(4桁)を暗記しなければならない。

無難に誕生日を入力した。

ようやくプールに入るが真面目に泳いでいる人はまずいなくて、飛び込みを楽しんだり寝そべって日焼けをするのが正しい利用法らしい。

ウォータースライダーが結構面白いのと、飛び込み用のプールがあるので真面目に飛び込んでしまった。

顔だけ妙に日焼けしてた上に一人で子供にまざってはしゃいでいたので、変なジャポネと言われていたと思う。

プールの後はアイスがうまい。

そのあと隣村のプラにあるボルダー(注:3~4mを越えないくらいの大きさの岩のことで、ロープを使わずに登って遊ぶ)に行く。

この日は結構人が来ていて、面白い課題を言葉の通じないボルダー友達とたくさん登ることが出来た。

シャモニで一番気に入った場所だ。

トポ(注:ルート図)があることも分かったので、帰りがけに山道具屋で買った。

フランス人に、Col de Montetsのボルダーもお勧めされた。

7月30日(金)

日帰りの岩登り

Chapel de la Griere (赤い針峰群)

アプローチのリフトが大胆で結構面白かった。

小さめの日本人には結構恐い。

帰りはリフトが止まっていて焦ったが、客がたまるまで待つものらしい。

おおらかだ。

この辺は片麻岩なので岩がきたない。

けっして快適なクライミングとは言いがたい。

やはり登るなら花崗岩の方がきれいだ。

7月31日(土)

ハイキング

Col de Balme

バスに乗って少し遠くへいくだけで色々新鮮に見えてくる。

バルム峠付近は日本の山を思い出させるようななだらかさ、広々としていて景色がよい。

写真におさまりきらないので伝えようがない。

牛がたくさんいた。

少し遠回りしてちょっとした頂上でお弁当を食べて帰った。

<ボルダーにはまる>
8月1日(日)

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休養日

夜に雨が降ったのでどこもしっとりとしていた。

お気に入りのプラのボルダーは濡れているとは思うが、ボルダー好きとしてはじっとしてはいられない。

林の中の気持ちの良い散歩道を歩いて30分くらい。

当然人はいないのでのんびりボルダーを味わうことにする。

向かって一番右端カンテラインが陽があたって乾き始めていたのでトライすることにする。

高さもあって一人でやるにはなかなかの課題だ。

前回さわったときより大分さえないムーブ(注:登るときの一手一手の動きのこと)だったが、かなりびびったあげく何とか登ることができた。

ちょうどその頃フランス人のボルダラーがやってきた。

彼はとても親切であれこれと課題やムーブを教えてくれた。

おかげで痺れるようないい課題を登ることができた。

彼には写真をたくさん撮ってもらったのだが、私の持っていたカメラに妹のプリクラ写真(友達と二人ではなをほじっている)が貼ってあったのでけっこううけていた。

妹もフランス人を苦もなく笑かすとは、やるものだと見直してしまった。

彼も帰ってしまい小腹も減ってきたので、散歩道をキャンプ場まで戻って、ご飯を食べてからプールに行った。

8月2日(月)

Col de Montets

ボルダーハイキングの日、バスに乗ってスイス国境の終点駅まで。

プラのボルダーで知り合ったアメリカ人がここの情報を教えてくれた。

資料館のマーモット(注:でかいネズミみたいな奴、アルプスを代表する小動物)の剥製はけっこうでかかった。

日本のガイドブックなどには載っていないけどけっこう良いところで、自然散策路みたいのがある。

10分も歩けばボルダーエリア。

意外と人が多くて賑わっているが根性入れてやっている人はほとんどいなくて、お弁当を食べにきたついでという感じ。

のんびりした良い一日だった。

<トリノ小屋に泊まる>
(今ツアー中、唯一のイタリア体験)
8月3日(火)

翌日の登攀にそなえ、この日のうちに山小屋まで入ることになった。

トリノ小屋に入っていってまずチェックイン、予約はあるかと聞かれ桜井さんが「無い」

と答えると、受け付けのお兄ちゃんは「No problem!」

と軽いノリと大きなアクションで答えてくれた。

払いはリラが基本らしく、当然といえば当然なのだがこれでイタリアを実感した。

フランへの単純な計算式があるらしく紙に書いて一生懸命説明してくれて、出したフランを「ウーノ、ドゥーモ、トゥーレ、カトロ、チンクエ…」

と歌うように一生懸命数えていた。

バーでビールを飲んでいると、さっきのお兄ちゃんを含む従業員らしき人達がとにかくみんな、ひたすら早口(に聞こえる)でしゃべりまくってじゃれたりしている。

これがイタリアかと酔った頭でひそかに感激していた。

トリノ小屋からの景色は素晴らしく、南を見るとモンテ・ビアンコ(モンブランのイタリア語名)やモディとそれらに突き上げるプトレイ稜やブレンバ側稜が見え、北を見れば明日登ろうと思っているダン・デュ・ジュアン(注:巨人の歯という意味、300m位の岩塔)が見える。

でもイタリア側のアオスタの里の風景もとても素敵で、いつかは車で気ままに回ってみたいなあと思いながら、小屋のテラスから随分長い時間眺めていた。

夕食の時間をはっきり聞いていなくて、せいぜい夕方6時くらいだろうと思っていたらなんと8時からだった。

7時半くらいにはかなり良い匂いがしてくるのだが、学食のような食堂では入り口に宿泊客が並んでいるのを気にもせず、食堂のテーブルでまずは従業員が皆で夕食を食べていた。

かといって、並んでいる客がイライラしているかというとまったくそんなことは無く、誰もが楽しそうに一生懸命に会話を楽しんでいた。

ほかにもチェスをやったり山のトポをみて議論していたり、なにしろ一生懸命に自分の事をやって有意義に過ごしている感じなのだ。

待ちに待った食事はとってもおいしくて事実上おかわり自由、従業員との交渉次第でなんでも可能な感じだった。

ワインもおいしかったし、まわりの宿泊客(全員登山者)の様子を見ていても楽しかった。

食事の時間帯は日本とヨーロッパの価値観の違いを一番強く感じた。

<再び登攀に出発>
ダン デュ ジュアン(4013m)
8月4日(水)

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4:00に目覚ましが鳴り、トリノ小屋の部屋から外を見るとモンテ・ビアンコが月に照らされてまさに白く輝いていた。

星もきれいに見えていた。

前日にジュアンを登ったという同室のスイス人達も「天気は上々だ」

と言って、まずは朝食をとるために支度をはじめた。

朝の食堂は一番下っ端の少年従業員が眠そうな目で一生懸命給仕をやっている。

まだ新前らしく、何かにつけてオロオロしてるのがかえって好感がもてる。

まだ暗い5:00に小屋を出発。

徐々に空が明るくなっていってまずはモンテ・ビアンコから陽があたりだし、タキュルの岩峰群を照らしてゆく。

ただしこの時、モンテ・ビアンコの向こうには黒い雲が迫ってきていた。

ダン デュ ジュアンの基部までは2.5時間位、岩登り用のフラットソールに履き変え登り出したとたんにガスに包まれ雪も降ってきた。

たまったものではないのだけど、ここで引き返すのもつらいものがあるので気合いを入れて駈け登り、吹雪の中なんとか頂上のマリア様を拝むことができた。

手足の感覚はすぐに無くなるし、風でロープが舞ったりと体は8月のつもりなだけにちょっと厳しく感じた。

晴れていれば最高の景色だったろうに。

小屋に戻ったのが13:00頃、荒天のためロープウェーが動いているか気になる。

小屋のおばちゃんにパートナーがとりあえず「英語はなせるかい?」

と尋ねたところ、片足をイスにかけその上に肘を置いて、自信に満ちた笑みを浮かべながら「NO!」と答えてくれた。

マンガみたいだった。

客のおじちゃんが通訳してくれたが、いろいろ話したあげくよくわからなかった。

しかたが無いのでロープウェーの駅まで行くと、案の定動いていなかった。

整備のお兄ちゃんをつかまえて「シャモニに帰らせてくれ~」と主張しておいて、後はやることもないので駅の茶店でビールを飲んでそこらにある雑誌を見たり、駅をうろうろしたりして暇をつぶした。

2時間くらい待ってようやく動かしてくれて、他にフランス人クライマー2人と我々の計4人のためにすべてのゴンドラが動きはじめた。

風が強くてゴンドラがえらい揺れてなかなか怖かった。

シャモニの町での夕食はお店で食べて、ミートフォンデュ、スパゲティ、ポテトチーズ、サラダ、そしてワインと極めて充実したものとなった。

<帰国の準備・帰国>
8月5日(木)

買い物そして帰国の準備

天気はやたらよかったので朝から洗濯をした。

それから町に出て、フランスのクライミング雑誌(ボルダー特集だった)とTシャツを自分のために買った。

いよいよ帰ると思うと、見慣れてしまった町並みもまた違ったものに見えてくる。

職場のおみやげ用にスイスゴールドチョコ(約200円)を8個買った。

8月6日(金)

帰国

朝8:00シャモニ発のバスに乗って10:00にジュネーブの空港着。

途中スイス国境では検問があって、一人がしょっ引かれていった。

バスから眺める普通のフランスの景色(生活)は名残惜しさをつのらせた。

次に来るときは車できままに里をめぐってみたいと思った。

ジュネーブの町は祭か何かの盛り上がりで、初日に寝たベンチの横は立派な花壇になっていた。

空港ではコーラが4.2SF(約350円)高い!

その他

・航空券はサベナ・ベルギー航空、往復121,500円。

3時のおやつにベルギーワッフルとおにぎりが一緒に出てくる。

飯はまあまあうまい。

・総費用は20万円とちょっと。

自分としては贅沢したほうだと思う。

・ジュネーブでもシャモニでもあちこちに両替機があって、日本円が即現地通貨になる。

最近は日本で作ったキャッシュカードで現地のATMが使えるから便利だ。

・町にいるときはほとんど毎日アイスを食べた。(かなりうまい)

・英語は極力使わずフランス語を使った。あいさつ、買い物等には不自由しなかった。

・飯は外食は高いが、スーパーでの買い物は一部日本よりかなり安い。ワインが一本150円位からあるし、宅配ピザ並に大きなピザが350円位。

乳製品が安いようだった。

<fin>

シャモニの休養日について

1999年7月
中嶋(記)

1・プール

町に水着を買いにいく。

サイズの表記がまったく分からないので、水着コーナーに店のお兄ちゃんを連れていって、おなかを見せてジャストサイズのものをゲットした。(約1000円)

プールに行くと、まず更衣室が男女に分かれていない。

ここが第一関門で迷ってしまうところだ。

次にロッカー、これも日本にない形と仕組みで一見ロッカーだか何だかわからい。

その場でロッカー番号と、自分で考えた暗証番号(4桁)を暗記しなければならず、無難に誕生日を入力した。

ようやくプールに入るが真面目に泳いでいる人はまずいなくて、飛び込みを楽しんだり寝そべって日焼けをするのが正しい利用法らしい。

ウォータースライダーが結構面白いのと、飛び込み用のプールがあるので真面目に飛び込んでしまった。

顔だけ妙に日焼けしていた上に一人で子供にまざってはしゃいでいたので、変なジャポネと言われていたと思う。

プールの後はアイスを喰おう。

プールは大体500円位。

ちなみにプールの横が人工壁なのだが利用法が分からず敗退。

2・ボルダー

まずはプラのボルダー。

シャモニの中心からだと、気持ちの良い林の中の散歩道を歩いて30分くらい。

日本の花崗岩よりつるつるした感じがある。

高さがそこそこあり、内容もとても充実している。

シャモニ近郊の岩場集(英語)にちゃんとトポがのっている。

個人的にはシャモニ周辺で一番気に入った場所だった。

Col de Montetsのボルダーはシャモニからバスにのって30分くらい、終点で降りる。

資料館のマーモットの剥製はけっこうでかかった。

日本のガイドブックなどには載っていないけどけっこう良いところで、自然散策路みたいのがある。

10分も歩けばボルダーエリア。

意外と人が多くて賑わっているが根性入れてやっている人はほとんどいなくて、お弁当を食べにきたついでという感じ。

休養日にはもってこいだ。

越後 早出川 杉川本流

1999年7月31日~8月1日
三好(わらじの仲間)、渕上(わらじの仲間)、瀧島(記)

初めての本格的な水泳登山にわらじの仲間の三好さんが招待してくれました。

場所も初めての河内、下田山塊で気も心もうきうき気分で関越道をひた走りました。

今回は女の中に男が一人という、これも初めてのパーティー編成でした。

三好さんにおんぶにだっこで気楽に連れてってもらいました。

この山塊は北側を河内、南側を下田と呼ぶそうです。

ちなみに下田は“しただ”と発音し、“しもだ”ではありません。

だから伊豆ではありません。

ふもとの村松あたりから眺めるとぱっとしない、ただの山でした。

この山塊に林道や登山道、植林などが少ないのは山ヒルやアブが異常に多いことも関係するのではないでしょうか。

林道の終点の広場に車を置いて出発した。

アプローチの登山道を30分ほどで逢塞沢出合の取水堰堤に着く。

ここまでがこの山域でも有数の山ヒルの生息地だそうだが、ここ数日、雨もなく非常に乾燥していたせいかヒルは渕上さんの足に1匹だけ付いただけだった。

沢に下りるといきなり泳ぎからはじまる。

谷は深く切れこんだゴルジュ状で結局1日中ゴルジュの中にいることになった。

直前に上州屋で980円で買ったライフジャケットはフル出動となる。

泳ぎと言っても水流の遅いトロの泳ぎで長くても20メートルも泳ぐと足がつく。

ルート図を見るとずーとゴルジュで、実際これ以外表現のしようがない。

地図をにらめっこしても特徴的な目的物が乏しい沢で現在位置がわかりにくい。

東京近郊の小さな沢と比べるとスケールはあまりに違うので、感覚的なズレもあったと思う。

天気は快晴で雨の心配はほとんどないので泊まり場があったら泊まればいいやと気楽に進む。

アブは覚悟していったので許容範囲だった。

養蜂業者の人が宙服みたいなカッコで巣箱を開くところをテレビで見かけるけれど、まとわりつくアブの数は養蜂業者にまとわりつくミツバチの3分の1位かなと、へんな憶測をしてしまう。

右岸に泊まり場を見つけて泊まった。

秀峰では考えられないほどのご馳走を頂いた。

私は釣りに出かけるが1匹上げたのみだった。

翌朝は最低の荷物だけをザックひとつに入れて進んだ。

同ルート下降は気が楽だ。

今回の核心部は水流が強く泳ぎでは突破できない淵だった。

最初は泳ぎの突破を試みた三好さんは戦法を変更して右岸の岩を登り出した。

進める所まで進んで、5メートルくらい下の水に飛び込んだ。

僕らはロープにつかまって楽チンで突破した。

しばらく進むと川原の横にみごとな二本杉が立っていた。

これがルート図にある二本杉だ。

ということは昨夜の泊まり場は八匹沢手前のルート図ではまだゴルジュの中だったと言うことだ。

まあこんな事もある。

もう少し進み上久沢を確認して戻ることとした。

下りは泳ぎの部分はぷかぷか浮いて流れに身をあずけていれば良い。

天気も良いのでなんの不安もなかった。

眺めるのと、登るのでは大違い。

下田、河内山塊はそんな山でした。

沢登りの本に篤志家と言う言葉が載っていますが、篤志家はきっとこの辺の山にも通うのでしょう。

今回はヒルはわずか1匹、アブも許容範囲でした。

大群には出会わなかったけれど、覚悟していけば楽しく過ごせる山だと思います。

1日歩いて泊まり場は標高200メートル以下、低いけれど山の中でした。

水辺近くを飛ぶトンボを岩魚がジャンプして食べようとするのを見たのも初めてでした。

東京の気温はおそらく35度位まで上がっていたことでしょう。

そんなくそ暑い夏の1日を涼しく快適に?過ごすことができました。

今後も夏には篤志家に成るべく覚悟を決めて、また伺いたいと思います。

河内、下田の山や沢のみなさんよろしくお願いします。

 

 

北岳バットレス 5尾根支稜~ピラッミドフェース~4尾根

1999年7月31日~8月1日
杉浦、水柿、井上、三好、倉田(記)

7月31日(土)

前夜発で広河原に2時ごろ着くが、広河原にはかなりの車がとまっている。

なんとか就寝。

朝ゆっくり起き、ハイキング気分で白根御池に。

のんびりとテント張りながら、晴れ上がった空にバットレスが見える。

この日は下見を兼ねて十字クラックを登る予定だったが、二俣から先で、入るべき沢を間違えてしまい、がらがらの悪い涸れ沢をトラーバースしたりして、取り付きについた頃にはもういい時間になってしまった。

5尾根支稜末端の窪みのところ(ビバーク可)に道具をデポして敗退。

帰りはお花畑のなかの踏跡をたどる。

ちなみに一般道とぶつかるところに、黄色のペンキでしっかりとD沢と矢印が標されている。

ちょっとびっくり。

うーむ。

ところで、アプローチについて一言。

日本の岩場(上)で二俣から2つ目の沢をつめると書かれているのは、3つ目のような気がする。

体調が今一つ良くない私は白根御池での酒宴で、頭がんがん夜空の星がくるくる明日もしかして登れないかもと不安を抱えながら一足早く就寝。

8月1日(日)

朝1時起床、昨日のデポを回収して、少し夜空が明るみ始めた4時頃に登攀開始。

2パーティ(水柿・井上)(杉浦・三好・倉田)にわかれて同じルートを登りはじめる。

あいかわらず不調な私は、フォローで登らさせて頂く。

5尾根支稜2~3ピッチ、カンテ沿いにいくと小さなテラス(2、3人テントが張れそう)がある。

そこから右の草付のバンドへトラバース。

Dガリー右のフェースは何処も登れそうで、ピラミッドフェースのルートがよくわからず、ルンゼを登る。

ぼろぼろのバンドを右に回り込み、かぶり気味のクラックをジャミングしながらのぼる。

岩はつかむとぐらぐらするので、押さえつけたりしてあまり力がかけられない。

その頃から私のがうつったのか井上さんが体調悪くなる。

いざとなると頼もしい水柿さんが変な歌をうたいながらリード。

逆層のフェース(Ⅳ+)を過ぎ2ピッチで、4尾根と合流。

そこから2ピッチでマッチ箱で、向かって左へ懸垂。

尾根上には黄色い丸ペンキが所々にあって、変な気分。

痛いてん足のあしでスメアリングしながらフェースから右に切れ落ちるカンテにでる。

ガスが出ていなければ高度感があるだろう2ピッチを快適にのぼると、テラス(テント張れる)に14時40分頃つく。

ギヤの片付けをして、そこから20分歩くと、15時20分頃に北岳頂上。

山頂を16時ちょい前に出発。

途中で休みながら、白根御池経由で19時過ぎに広河原につく。

休みたいのになぜか自然と体が動くらしくふらふらしている人が数名。

20時30分頃なんとか帰路につく。

この日はなぜか時間に関してかなり運悪いようで、中央高速で30kmの渋滞にはまり、府中インターに0時30分。

で、一番残業した方だと自宅に3時頃、着いたとのこと。

本当にお疲れ様です。

あと、体調悪い私が登れたのは皆さんのおかげです。

ありがとうございました。

 

 

南アルプス縦走(甲斐駒ヶ岳~光岳)

1999年7月20日~7月31日
畠中(記)

慣れない就職活動で傷ついた心を癒しに、一人南アルプスへ向かった。

長い長い稜線をのんびりと歩きたかった。

「そのまま居付いて仙人になってしまおうかな。

職業仙人っていうのも悪くないな。

それとも鳥になるかな。

荒川岳あたりからなら飛べそうな気がする。

職業鳥っていうのも良いな。

でも、自分の子供が『おまえの父さん鳥なんだろ。クェー・クェーって鳴いてみろよ。』なんていじめられでもしたら困るな。」という思いと共に。

7月19日(出発日)

八王子に関さん、三好さん、水柿ちゃんが見送りに来てくれた。

酒を飲んで楽しくしゃべった。

はじめは山の話だったが、いつのまにか水柿ちゃんの得意の話になっていた。

まあ、関さんも私も嫌いではないが。

差し入れも戴き、本当に嬉しかった。

深夜0:29に急行アルプスに乗り、すぐに寝てしまった。

7月20日(1日目) 雨

ぐーすか寝ていて危うく乗り過ごすところだったが、何とか甲府で下り、バスを乗り継ぎ8:15に北沢峠着。

長衛小屋にテントを張り、甲斐駒をピストンした。

今日は雨で展望もなかったが、空気がおいしく、「やっぱり山最高」

と初日から感じた。

14:05テント場着。

7月21日(2日目) 風雨

ラジオで、午前中は天気が良くて午後から崩れると言っていたので、気合いを入れて5:00に出発。

しかし、歩き始めて1時間で雨となり、悲しい気持ちとなる。

風も出てきて、視界は50m。

8:50に仙丈岳に着き、寒いのですぐに大仙丈に向かう。

3年前に同じような天気で、山頂直下より小仙丈沢の源頭の方へ迷い込んだことがあったので、慎重に行く。

雨風が強いので、メガネが曇ってしょうがない。

こんな日は稜線を歩きたくないものだ。

大仙丈を越えて少しの二重山稜になっているところでテントを2張発見。

この先はルートが結構分かりずらかった記憶があるので、隣にテントを張ることにした。

まだ9:30だ。

のんびりとラジオを聞きながら過ごす。

今日は全国的に暑いらしい。

八王子は30度以上あるそうだ。

羨ましい。

7月22日(3日目) 曇

夜中に寒くて目が覚めた。

シュラフカバーだけなのでしょうがないが、やっぱり寒いね夏の夜。

6:30に出発し、長い長い仙塩尾根を行く。

山の大きさを感じるすばらしい尾根だと思う。

しかし、ペースは上がらず13:20に三峰岳手前2710mに幕営。

夕方ご飯を作っていたら、一瞬空に青空が見え、何と三日月が。

ありがとう神様。

小鳥のさえずりも聞こえ、幸せな時を過ごした。

7月23日(4日目) 晴

今日は風が強いが良い天気。

三峰岳直下にザックを置いてのんびりと北岳をピストンし、熊ノ平小屋へ。

北岳の高山植物は言葉にならないほど美しかった。

近づいてじーっと見ていると、思わず話しかけていた。

7月24日(5日目) 晴

朝、ご飯を食べながらラジオ深夜便を聴くと、梅雨明けを告げていた。

祝梅雨明け。

待ってました。

というわけで、今日はものすごく良い天気。

仙塩尾根を進み、コウモリ岳をピストンしてから塩見岳を越えて三伏峠へ。

よく歩いた。

コウモリ岳には行くつもりはなかったのだが、近そうに見えたので何気なく行ってみたら遠かった。

人生とはこういうものか。

しかし、行ってみると展望がすばらしかった。

あんな風に富士山が見えるとは。

人生とはこういうものか。

塩見小屋からは、熊ノ平から一緒のおじちゃんと三伏から塩見岳往復のお姉さん2人と一緒に行動した。

全く知らない人どうしが山で出会い、同じ時を過ごす。

山での旅の徒然。

何の損得もない関係。

いや、得得の関係だろう。

私は、このことを含んだ山登りが好きだ。

特に夏山の縦走はこのためにやっていると言っても過言ではない。

出会いはすばらしい。

そして山ってステキ。

三伏峠では、おばちゃん達からたくさんの差し入れを戴いた。

それはもうモテモテだった。

以前、我が会のT島さんが「畠中はおばさんにモテそうだよ。俺も昔はよー……」

と言っていたのを思い出した。

人生には一度すごくモテる時期があると聞く。

まさか今じゃないよね。

まさか今じゃないよね。

夜は戴いたビールと梅酒を飲み、気持ち良く床についたが、テント場にいびきのうるさい人がいてなかなか寝付けなかった。

もし夢で私が大岡越前になったら、絶対島流しにしようと心に誓った。

7月25日(6日目)霧時々雨

今日は荒川小屋まで行きたいので早起きしたが、雨が降っていたので二度寝した。

結局6時に出発。

ガスっていて風が強く寒い。

途中、小河内の避難小屋が新しくなっていた。

今日は黙々と歩く。

荒川のカールは今回で三度目の通過であるが、相変わらずでかい。

また、稜線に出てからも長かった。

山の大きさがよく分かる。

南アルプスはいい。

大好きだ。

荒川前岳からお花畑を楽しみながらのんびりと下ると、こちらも新しくなり、登山客で大賑わいの荒川小屋に着いた(15:15)。

7月26日(7日目) 晴

またまた夜中の24時に目が覚めた。

ほぼ毎日のように寒くて目が覚める。

その度にお湯を沸かし紅茶を飲む。

一人だから許されることだろう。

一人は気楽でいい。

今日はがんばって聖平まで行こうと思っていたが、天気も良いし、もう少し長く山にいたいので百間洞までとする。

コースタイムで4時間。

昼に着いてビールでも飲もうという魂胆だ。

赤石岳では雷鳥の親子もおり、ボーと見ていたり昼寝をしたりした。

極楽だった。

ただ、雷鳥の親子を必死にカメラに収めようとしているおじさんが、追いかけて高山植物を踏みつけていたのには悲しく、呆れて何も言えなかった。

のんびりのんびりして、百間洞山の家には13:00着。

急いで1000円もするビール(500ml)を買って飲み干した。

もう麦芽のない生活は考えられない。

7月27日(8日目)晴のち雨

5:10に出発。

朝は晴れていたが、すぐに雨となる。

風も強くいわゆる悪天だ。

兎岳のピークではほとんど視界もなく、コンパスを頼りに行く。

せっかく聖岳を越えるのにこんな天気では嫌なので、9時前に早々と兎岳避難小屋の前にテントを張った。

兎岳避難小屋はボロボロの小屋だ。

コンクリでできている小屋なのだが、入り口の辺りはコンクリがはがれ傾いている。

夏は全く使う気はしないが、冬は迷わず中に入るだろう。

今日は雨がかなり降っているみたいだ。

井川でも記録的だそうだ。

しかし、今の私はテントの中でTシャツとパンツ一枚で、ガスを炊いてTOKYO FMを聴きながらくつろいでいる。

のんびり濡れたものでも乾かしたい。

あー極楽。

7月28日(9日目) 風雨

いつものように寒くて目が覚めたが、どうも体の調子がおかしい。

喉が痛い。

どうやら風邪を引いてしまったようだ。

この世に生を受けて22年。

最近ようやく自分の体の風邪の引き始めが分かるようになった。

大人になったものだ。

しかし、思い返してみると、原因はシャツとパンツ一枚でくつろいでいたこと意外には考えにくい。

寒い山の上で大人がそんなことをするだろうか。

冷静に考えればしないだろう。

まだまだ大人への道は遠そうだ。

結局、まだ1時だがご飯を食べて風邪薬を飲んだ。

6時に出発し、聖岳には7:50に着いた。

歩いていても頭がポワーンとして力が入らない。

しかし、何としても光岳まで行きたい。

いまさらながら健康管理の甘さに腹が立つ。

相変わらず天気は悪いが、がんばって茶臼小屋まで歩いた。

しかし、こうも天気が悪いと本当に梅雨が明けているのだろうかと疑いたくなる。

今日は人生2度目のお金を払っての小屋泊り(素泊まり)とした。

しかも寝袋まで借りてしまった。

しめて4500円。

寝袋の久しぶりのぬくもりに包まれすぐに眠りについた。

きっと寝顔はにやけていたことだろう。

7月30日(10日目) 雨

今日も雨。

6時に出発し光岳に10:20着。

今山行最後のピークは樹林に囲まれた静かなピークだ。

さあ後は下るだけだ。

光岳からは伊那側に下りようと思っていたが、寸又峡に下りることにした。

寸又峡へは林道歩き40kmが待っているので歩くことなど考えていなかった。

しかし、荒川小屋から聖平まで一緒だったおじちゃんが、

「寸又林道は一生に一度は歩かないとだめでしょう。男のロマンだよね。」と言ったので、その時から自分の中で勝手に盛り上がってしまい、

「ロマン。ロマンだよやっぱり。男にロマンがなくなったらおしまいだー。男はロマンだー。絶対寸又峡に下りてやる。下りてやるぞー。」

となったわけである。

光岳からはひたすら急な樹林帯を下る。

適度に赤布が付いているので迷うことはないだろう。

途中で2回の休憩をはさみ、そろそろ本当に膝が砕けるんじゃないかなという頃に林道に着いた(13:10)。

寸又左岸林道の光岳登山口は山奥の山奥といった感じのするところだ。

その登山口に「寸又峡温泉まで39.9km」という標識が会った。

私にはこれがおかしくてしょうがなく笑ってしまった。

そんな歩いて39.9kmなんて。

八王子から横浜までじゃないか。

最後の締めくくりがこれか。

ハハハ。

歩かないと帰れないのでしょうがなく歩き始めたが、突然土砂降りの雨。

トホホという気持ちで日暮れまで歩き、林道の脇にテントを張り、ご飯を食べたらあまりの疲れに気を失った。

7月31日(11日目) 曇のち晴

歩きに歩いた40km。

途中、展望台より千頭ダムに下りる道を見逃し(何も考えずに歩いていたので)左岸林道をひたすら歩き、気力も足もボロボロになる頃、寸又峡に着いた。

疲れたー。

今回の山行は冬の偵察も兼ねていた。

南アルプスを歩いてみて、山登りの良さを再確認した。

そして、冬に一人でこの果てしなく続く山稜を歩きたい。

ただひたすら黙々とラッセルしたい。

この山にどっぷりと浸かりたい。

自分の山登りができると思う。

でも、私は臆病なので実現しないかもしれない。

まあ、それはそれで良いか。

どっちにしてもこの山行は楽しかった。

でも、まあとりあえずゆっくりと布団で眠りたいな。

それで、コーラ飲んでポテトチップス食べてマンガ読んで・・・あー楽しかった。

またやろうかな。